創価学会の真実の歴史 --昭和3年(1928)〜昭和23年(1948)--
引用表記:(創年)➡『創価学会年表』聖教新聞社昭和3年(1928年) | ||
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そのように、すでに折伏下種せられて
おったのが、ドロ沼の蓮華のごとく三百年近くもたってから、ふたたび芽をふきだして、以前にもまして、いっそうりっぱな花を咲かせ、今日の創価学会のはじ
めをなしたのであります。 (日達上人全集第一輯三―268頁)
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昭和5年(1930年) | |
創価教育学会設立(本の発行から後年、この日にこじつけられた) | ![]() |
昭和6年(1931年) | ||
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牧口ら、住職に就任した堀米泰栄師(のちの第65代猊下)との親交深まる。(創年) |
時は昭和六年十月九日より同十七日迄、処は多宝富士大日蓮華山大石精舎に於て全国五千の真俗が真心こめて最も意義ある、最も荘厳なる六百五拾遠忌大法会を奉修し得たる事じゃ永遠に忘るる事の出来ない喜びであった。【宗報 昭和6年11月号】 第一班巡教報告(宗門) |
昭和7年(1932年) |
6月21日に第一回目の講演行う。来聴者30名。【宗報 昭和7年7月号】 【宗報 昭和7年7月号】→ 講頭に三谷素啓 | ![]()
| その後、三谷講頭と絶交 折伏・教化親であり直達講・講頭の三谷と流義上、相容れなくなり激論を交わした末絶交。 東京市外落合町下落合なる三谷六郎(素啓)氏は直達講々頭として三拾余名を有し将来を期待せられし篤信家なりしも数年前より慢性尿ドク症にて療養中の処本 年二月頃病勢一変し肺炎を併発し遂に去る七月二十日死去せられたり。享年五拾五歳。因みに前記直達講は本年六月二十三日許可せられたるものにて講の基礎も 充分ならざるの時同氏を失ひたる為め一頓挫を来したるは遺憾と云うべし。【宗報 昭和7年9月号】 部員は前夜来より各戸に宣伝ビラ、或は要所々々にて宣伝演説をなし、当夜も先発隊(第一班)は午後四時頃出発新道筋に於て宣伝演説をなし午後六時の定刻を 告ぐるや聴衆は陸続として講堂目がけて集ひ来り定刻を過ぐる三十分(第二班)にて小笠原師、山本師、渡邉師、大村部長、江花君の到着を待って幹事中川晃道 君の開会の辞に依って茲に秋季大会の幕は切って落とされた。聴衆七百余名 上野小学校講堂 【宗報 昭和8年1月号】 |
昭和8年(1933年) |
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他の講員とも相容れなくなり、中野・歓喜寮(後の昭倫寺)に所属替え。 当時の歓喜寮御住職、堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人に指南を仰ぐが、在家団体・創価学会の設立を願い出、許されず、12年に教育研究の名目で設立。 この年、時習学館で月1回、堀米尊師を迎え法華経講義を開催(創年) |
昭和9年(1934年) |
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昭和10年(1935年) |
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昭和11年(1936年) |
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昭和12年(1937年) |
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昭和13年(1938年) |
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昭和14年(1939年) |
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昭和15年(1940年) |
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昭和16年(1941年) |
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昭和17年(1942年) |
「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかった。但し将来は弊害がありそうである。」 「大善生活実証録」として総会の内容を出版 会員にも寺に行くことを止めさせる。 |
昭和18年(1943年) |
宗門はこの事態を憂慮され、牧口・戸田を呼び「伊勢の神札を焼却する等の国禁に触れぬよう」忠告する。これによって、戸田氏から通牒が会員に配られる。 |
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昭和19年(1944年) |
●戸田理事長獄中の手紙 ●牧口への尋問調書の一部 「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」 出征
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| 「大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は、ぜんぶといっていいくらい軍部と結託をしました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です(会長講演集 2-143頁)」 |
昭和20年(1945年) |
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戸田 それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、牧口先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」 (野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16) |
昭和21年(1946年) |
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講頭会において戸田発言 「世間的に有名な信者を会長なり総講頭なりにして、寺院教会から離れて活躍すべきです」(『宗報』第13号) 一九四六・一二・二六( 昭和二十一年十二月二十六日―著者) 戸田甚一 用紙代金弁明 返信保留 という事務処理をすると同時に、その処理用紙の欄外には、わざわざ、「戸田氏、世間師(ペテン師)の正体を現す。不快。返信無用」と記入されている。 ① 思想的には、国粋主義者であるが、軍部や官憲には反抗的であり、事業意欲旺盛だが、何一つ成功したものはないと述べる。 ② 狂信的な仏教団体を指導するが、本人はすべて計算ずくで動くタイプだから、ことさらその信仰に狂信的であることはないと述べる。 ③ 共産主義に対する態度(本人は共産主義は受け入れられないし、性格的にも大変に嫌いだと言う) ④ 酒くせがが悪く女くせも悪く友人間の信用もない。(酒くせがあり、おんなのクセも悪い。金にもルーズで多くの友人が迷惑している) (邪教集団・創価学会 室生忠・隈部大蔵著) |
昭和22年(1947年) |
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昭和23年(1948年) |
1948.1
各地の寺院・法華講から250万円、創価学会も20万円余 「昭和二十二年度の予算は僅かに六万三千七百円、町の八百屋さんの今度の所得税にすら、たらない金額で一年間宗門を運営していくのであるから、余り大したことは望めないが実質主義で行く」(『宗報』第18号) |
