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創価学会の真実の歴史 --昭和3年(1928)〜昭和23年(1948)--

引用表記:(創年)➡『創価学会年表』聖教新聞社  
 昭和3年(1928年)
1928.4.15
神戸独一本門講増田耕一、日蓮主義宣伝会に出席。仏立派僧7名、身延派僧10名、会員300余名会合の席上日蓮主義宣伝会の正当ならざるゆえんを演説。ために同会自然消滅(大日蓮15-2)
1928.6.8
御法主日亨上人猊下、法を日開上人に付す
1928.6月ごろ
牧口常三郎(57歳。後の創価教育学会初代会長)、その秋、戸田城聖(本名は甚一、2代会長)法華講信徒三谷素啓により折伏され日蓮正宗に入信。
 
牧口氏入信の動機「貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう」(柳田国男 『牧口君入信の動機』) 「戸田城聖も、牧口の入信後、すすめられるままに、三谷に会い、その話を聞いて入信した。彼28歳の時である」(創価学会四十年史)。
 あの初代会長牧口先生は、昭和の初めごろ、本宗に入信せられたのですが、入信後たまたま新潟の実家に帰って、その家にあったお御影様を見たところが、本宗 の十七代日精上人の御開眼のお御影様であったのであります。ひじょうに驚かれたのでございます。そのお御影様は、私も拝見いたしたことがございます。これ で牧口先生の先祖が、二百八十年も昔に、すでに折伏下種せられておったということを知ることができるのであります。
 そのように、すでに折伏下種せられて おったのが、ドロ沼の蓮華のごとく三百年近くもたってから、ふたたび芽をふきだして、以前にもまして、いっそうりっぱな花を咲かせ、今日の創価学会のはじ めをなしたのであります。 (日達上人全集第一輯三―268頁)

 昭和5年(1930年)
1930.6.25
戸田 城文堂を設立 『推理式指導算術』を発刊
1930.11.18
「創価教育学体系」第1巻を発刊
創価教育学会設立(本の発行から後年、この日にこじつけられた)
池田家 大田区東糀谷に移転

 昭和6年(1931年)
 
1931.3
『価値論』を発表
1931.4
>牧口、東京市新堀尋常小学校に校長に赴任
1931.7.5
日淳上人 中野教会所(歓喜寮ー昭倫寺)設立
牧口ら、住職に就任した堀米泰栄師(のちの第65代猊下)との親交深まる。(創年)
1931.9 
謹んで六百五拾遠忌を迎ふ
時は昭和六年十月九日より同十七日迄、処は多宝富士大日蓮華山大石精舎に於て全国五千の真俗が真心こめて最も意義ある、最も荘厳なる六百五拾遠忌大法会を奉修し得たる事じゃ永遠に忘るる事の出来ない喜びであった。【宗報  昭和6年11月号】
第一班巡教報告(宗門) 
9月4日~9日
教報告(宗門) 月18日 
第二班巡
9月3日~18日
九州・四国方面へ巡教、講演などを行う。6日の講演では聴衆100余名。
第三班巡教報告(宗門) 
9月6日~17日
九州・四国方面へ巡教、講演などを行う。愛知県において巡教。この地で500名の団体登山者を集う。 【宗報  昭和6年11月号】
第一班巡教報告(宗門)
9月4日~18日
青森・北海道・樺太方面へ巡教、講演などを行う。10日の講演では来聴者120余名。
第二班巡教報告(宗門) 
9月3日~18日
九州・四国方面へ巡教、講演などを行う。6日の講演では聴衆100余名。
第三班巡教報告(宗門) 
9月6日~17日
九州・四国方面へ巡教、講演などを行う。愛知県において巡教。この地で500名の団体登山者を集う。 【宗報  昭和6年11月号】
1931.9
第一班巡教報告 第二信(宗門) 
9月19日~10月12日
北海道・青森・岩手・宮城・福島方面巡教、講演などを行う。24日講演、聴衆者150余名ほか連日、講演を行う。
巡教師による講演 
清水市妙盛寺
9月27日
聴衆者100余名。【宗報  昭和7年1月号】
巡教師による講演 
公会堂葵文庫
9月28日
聴衆者500余名。【宗報  昭和7年1月号】

 昭和7年(1932年)
1932.3.31
新堀尋常小学校廃校 牧口、教職から離れる
1931.6
本山青年僧侶による弁論部発足(宗門) 
6月21日に第一回目の講演行う。来聴者30名。【宗報  昭和7年7月号】
1931.7.9
砂町教会所 月例講演会
1932.7.15
「創価教育学体系」第三巻発刊
1932.7.21
青年弁論部第三回例会(宗門) 来聴者30名。【宗報  昭和7年8月号】
1932.7
牧口常三郎 直達講副講頭任命(7/23日付)
【宗報 昭和7年7月号】→  講頭に三谷素啓

※この時、法華講の副講頭にに就任しているため、あくまで講中の信徒としての活動である。『創価教育学会』という宗教と離れた名称のグループを正式に認めるはずがないのである。
その後、三谷講頭と絶交 折伏・教化親であり直達講・講頭の三谷と流義上、相容れなくなり激論を交わした末絶交。
1931.8.19
本山青年僧侶弁論部定期練弁会 
1931.8.20
本山青年僧侶弁論部大講演会  来聴者1000余名。【宗報  昭和7年9月号】
1932.9
三谷素啓氏の訃
東京市外落合町下落合なる三谷六郎(素啓)氏は直達講々頭として三拾余名を有し将来を期待せられし篤信家なりしも数年前より慢性尿ドク症にて療養中の処本 年二月頃病勢一変し肺炎を併発し遂に去る七月二十日死去せられたり。享年五拾五歳。因みに前記直達講は本年六月二十三日許可せられたるものにて講の基礎も 充分ならざるの時同氏を失ひたる為め一頓挫を来したるは遺憾と云うべし。【宗報  昭和7年9月号】
1932.9.10
砂町教会所月例講演会 【宗報 昭和7年10月号】 
1932.9.13
三谷講頭死去のため直達講解散 【宗報 昭和7年9月号】  
1932.10.12
青年弁論部秋季大会(宗門)  
部員は前夜来より各戸に宣伝ビラ、或は要所々々にて宣伝演説をなし、当夜も先発隊(第一班)は午後四時頃出発新道筋に於て宣伝演説をなし午後六時の定刻を 告ぐるや聴衆は陸続として講堂目がけて集ひ来り定刻を過ぐる三十分(第二班)にて小笠原師、山本師、渡邉師、大村部長、江花君の到着を待って幹事中川晃道 君の開会の辞に依って茲に秋季大会の幕は切って落とされた。聴衆七百余名 上野小学校講堂 【宗報 昭和8年1月号】 

 昭和8年(1933年)
1933.2.1-14
青年弁論部巡回大講演  12ヶ所に渡る会場で講演会を行う 【宗報 昭和8年3月号】
1933.3.9
日開上人 東北地方大地震大津波災害につき義捐金勧募を訓諭
1933.5.1-6
青年弁論部春季大講演 5回に渡る講演会を行う 【宗報 昭和8年6月号】
1933.6.10
青年弁論部月次練弁会  寛師堂に於いて開催 【宗報 昭和8年7月号】
1933.7.23-28
日蓮正宗有志主催 夏季修養会開催   【宗報 昭和8年8月号】
1933.7.28-8.4
第九教区讃岐地方   8/1の講演には350名の来賓者【宗報 昭和8年10月号】
1933.8
牧口・戸田ら宗教活動始める--新潟県・荒浜で友人らを折伏
堀米尊師の御講に牧口、戸田らが参加
他の講員とも相容れなくなり、中野・歓喜寮(後の昭倫寺)に所属替え。
当時の歓喜寮御住職、堀米泰栄尊師=後の65世日淳上人に指南を仰ぐが、在家団体・創価学会の設立を願い出、許されず、12年に教育研究の名目で設立。
1933.9.26
尾州法難碑除幕式   1000余名の僧俗が参列
この年、時習学館で月1回、堀米尊師を迎え法華経講義を開催(創年)

 昭和9年(1934年)
1934.4
池田氏 羽田第二尋常小学校に入学
1934.6.20
「創価教育学体系」第四巻発刊

 昭和10年(1935年)
1935.1
教育宗教革命正法研究会 折伏座談会 東京・神田の教育会館(「創価学会年表」)
1935.2.11
戸田氏 松尾幾子と再婚。白金台に新居を構える。

 昭和11年(1936年)
1936.1.19
教育宗教革命正法研究会の座談会(東京・現本行寺) 
富士宗学要集講習会終了後、牧口主催による創価教育学会の座談会を開催。堀日亨上人猊下が出席。
1936.2
牧口 長野県に折伏活動--17人の入信者を生む
1936.2.23
教育宗教革命正法研究会の座談会(本行坊=現本行寺)、堀日亨御隠尊猊下の出席のもとに開催。(創年)
1936.3.24
牧口、戸田歓喜寮での彼岸会に出席。(創年)
1936.4.15
「新教」第6巻第4号(4月号)に「創価教育学会綱領」を掲載。
「創価教育学体系を中心に教育学を遂行し、国家百年の大計たる教育の徹底的革新を遂行し、且又それが根底たる宗教革命の断行をなすを以て目的とするの一項が明示され創価教育学会の使命がより鮮明になる。(創年)
1936.4.19
教育宗教革命正法研究会例会。(歓喜寮) (創年)
1936.5.10
教育宗教革命正法研究会の座談会。(歓喜寮) (創年)
1936.5.17
牧口及び研究員4人、堀日亨御隠尊猊下による富士宗学要集講習会に出席。(本行坊) (創年)
1936.6.6
研究員20人、堀米尊師こ講話を受講。(時習学館)(創年)
1936.8.13
第1回夏季講習会(総本山大石寺) 牧口ら9人が参加
1936.11.2
戸田氏の長男・喬久誕生

 昭和12年(1937年)
1937.1.27
学会顧問・秋月左都夫を招いて懇談会(東京・品川の玄海)。会員名簿が作られ約100人が名を連ねる。(「創価学会年表」)
1937.7
第2回夏季講習会(総本山大石寺) 牧口ら参加。
日淳上人から「在家団体・創価学会」の許しを貰えず、「創価教育学会」として発会式を行う。
このころから、上人に対する誹謗・罵倒などを行う。 すでに信仰上、上人とも絶縁状態。会員も歓喜寮とも絶縁状態となる。
「本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ」(竹尾氏が日亨上人から伺った話)
日淳上人は、牧口らの信仰上の再起を願い、元の常在寺を所属寺院として戻れるよう手配

 昭和13年(1938年)
1938.1.10
戸田、「推理式指導算術」の改訂87版を発刊
1938.7
第3回夏季講習会(総本山大石寺、約20人参加)
 
池田家 大田区西糀谷に移転

 昭和14年(1939年)
1939.3
池田大作少年 朝夕の新聞配達を始める 。
1939.8
第4回夏季講習会(総本山大石寺)
1939.12
創価教育学会第1回総会 (麻布の料亭・菊水亭にて開催。約50人参加)
事実上の初総会

 昭和15年(1940年)
1940.1.1
戸田氏 『小学生日本』を創刊(後に小国民日本に改題)
1940.3
池田氏 羽田第二尋常小学校卒業
1940.4
池田氏 羽田高等小学校(翌年、萩中国国民学校に)に入学
1940.8
第4回夏季講習会(大石寺)に参加。
戸田氏 日本商手株式会社を設立
創価教育学会の本部を東京・神田錦町へ移転
1940.10 
創価教育学会の綱領、規約、組織などを検討し、本部、支部(東京)、地方支部を設置。
会長・牧口常三郎、理事長・戸田城外に加えて、新たに本部役員として理事に矢島周平ら12人が就任。同時に本部に企画部、教育研究部、教育者倶楽部、創美華道研究部、折伏指導部、生活革新倶楽部、印刷部、婦人部、青年部、少年部の10部を設置。(「創価学会年表」)
1940.10.20
創価教育学会臨時総会(九段・軍人会館 約300人参加)
1940.11 
牧口ら九州指導 約2週間
この年、原島宏治、小泉隆、和泉覚、辻武寿、柏原ヤス等が相ついで日蓮正宗に入信
この年、会員数約500人。東京9支部、地方支部7の計16支部。

 昭和16年(1941年)
1941.3.10
牧口会長、総本山大石寺での僧俗護法会議に出席
同会議では、身延派との合同問題をめぐる宗門の態度決定についての協議がなされ不参加を決議(三月三十一日、日蓮正宗は単独で宗制の認可を得る)(『創価学会の年表』)
1941.4.20
創価教育学会臨時総会 (東京・共立講堂)
1941.7
池田氏の長兄・喜一除隊
1941.7.20
創価教育学会、機関紙『価値創造』創刊
1941.8.7
第6回夏季講習会(総本山大石寺、183人参加)
1941.8.20
「価値創造」第2号 「規約綱領を掲載」その第2条で、「本会は日蓮正宗に伝わる三大秘法に基づき教育、宗教、生活法の革新を計り以て国家及び国民の幸福を進めるを目的とする」を定める。(「創価学会年表」)
1941.11.2
創価教育学会昭和16年度総会 (東京・神田、教育会館 約400人参加 )
1941.11
九州総会 (福岡の武蔵旅館 約40人参加)
この年、会員数約2,000人。東京13支部、地方支部9の計22支部。

 昭和17年(1942年)
1942.3
池田氏 萩中国民学校卒業
1942.3
池田氏 新潟鉄工所に就職
創価教育学会第4回総会 (東京・神田の教育会館、約400人参加)
1942.8
第7回夏季講習会 (総本山大石寺、約150人参加)
1942.11.6
堀米尊師 学会幹部10数人に忠告
「過去十年来の結果に於て創価教育学会の信仰指導には何等の弊害はなかった。但し将来は弊害がありそうである。」
1942.11.22
創価教育学会第5回総会 (東京・神田の教育会館、約600人参加)
「大善生活実証録」として総会の内容を出版
1942.12
池田氏の長兄・喜一 再び出征
1942.8
第7回夏季講習会(大石寺)に150名参加。
 
牧口会長自ら、宗門と絶縁と近い状態となる。
会員にも寺に行くことを止めさせる。
「牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師と論議し、『もう貴僧の指導は受けない』と、席を蹴って退去」『畑毛日記』
直達講の副講頭であった竹尾清澄氏は、当時の牧口氏の信仰を次のように記している。
「牧口氏は(中略)利善美の理論 などを説き、畑毛を中心に左右の山地を取り入れた一大仏都建設の構想などを述べていたそうであるが、是は全く日蓮正宗を無視する異流と云わざるを得ない。 牧口氏はあれだけの学識がありながら、仏法上の総別ということになると、どうも認識が浅いような所が見られた。」
牧口ら靖国神社に参拝 「我々が靖国神社へ参詣するのは『よくぞ国家のために働いてくださった。有難うございます』といふお札、感謝の心を現す」(学会機関誌「大善生活実証録」)と牧口会長が語る。つまり牧口等が靖国神社参拝を行っていたことを意味する。

 昭和18年(1943年)
1943.5.2
創価教育学会第6回総会 (東京・神田の教育会館 約700人参加)
1943.5
戸田ら「富士倶楽部」 設立
創価教育学会を守るという目的として12名で結成
 
1943.6
学会をマークしていた特高警察は、東京・中野の学会員が近所の子供が死んだことを「罰だ」と決め付け折伏したことで、逮捕される事件が起きる。
宗門はこの事態を憂慮され、牧口・戸田を呼び「伊勢の神札を焼却する等の国禁に触れぬよう」忠告する。これによって、戸田氏から通牒が会員に配られる。

 昭和19年(1944年)
1944.1.1
戸田 獄中で一日一万遍の唱題と自文の法華経を読むことを始める
1944.3
戸田 学会が言う獄中悟達
1944.9.6
牧口会長は謗法の罪
●戸田理事長獄中の手紙
「堀米先生に、去年堀米先生を『そしった』罰をつくづく懺悔しておる、と話して下さい。『法の師をそしり』し罪を懺悔しつつ『永劫の過去を現身に見る』と言っております、と」(昭和19年9月6日、妻あて)
1944.11.18
牧口会長獄中で逝去
●牧口への尋問調書の一部
「会員は悉(ことごと)く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒して居りますが、創価教育学会其ものは、前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採入れた処の、立派な一個の在家的信仰団体であります」
池田氏の四兄・清信 
出征
空襲で創価教育学会本部、日本商手が焼失

後年の池田語録 
「大東亜戦争の最中には他の宗教、他の教団は、ぜんぶといっていいくらい軍部と結託をしました。その時に日蓮正宗だけは、単独でがんばりきった宗団です(会長講演集 2-143頁)」

 昭和20年(1945年)
1945.1.8
戸田 獄中で牧口の死を予審判事から告げられる
1945.3
池田 西糀谷から強制疎開。大田区西馬込の祖母を頼り転居
1945.5.24
池田家 空襲で消失。バラック小屋に居住
1945.7.3
戸田城聖 豊多摩刑務所から出獄
1945.7.5
戸田 堀米御尊師にお詫び
戸田は中野・歓喜寮を訪ね、堀米御尊師(のちの日淳上人)に対して
「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)
池田 大田区大森南(森ヶ崎)に移転
1945.8.20 
日本正学館仮事務所設置(品川・上大崎)
池田  旧制東洋商業学校(現・東洋商業高校)夜間部2年に編入学。新橋の昭文堂印刷に勤務
池田 大田区大森南(森ヶ崎)に移転
1945.10 
戸田 日本正学館設立(西神田)
牧口会長は摧尊入卑
野島「あなたは牧口先生の1番弟子であり、私 も第何番目かの弟子の1人である。弟子として、私は牧口先生の教えを忠実に守っていきたいし、また学会の正しい発展を願うことでは、敢えて人後に落ちない 熱意を持っているつもりである。ところで先頃の学会の検挙のことを、あなたは一体どういうふうに考えているんですか、どうしてあの事件があんなに拡大し、 あんなに長引き、そのあげくに、牧口先生の獄死ということになったのでしょうか。これについて、あなたは反省してみたことがありますか。(中略)
戸田 それは2通りに考えられると思いますよ。その一応は、学会が発迹顕本の時になっていたのだということ。それからもう1つ、二応としては、牧口先生が御自分の学説に重きを置いた結果、法華経をむしろその手段のように扱ったということ、御書に摧尊入卑という言葉がありまして、その摧尊入卑の罰とか罪とかいう言葉はないが、つまりそれに当たるのだと思う。学会の行き方としては、価値論から法華経へ、法華経から御本尊へというのでなければならないと思いますね」
(野島辰次=牧口門下で創価教育学会の理事を務めていた『我が心の遍歴』/『慧妙』H15.2.16)

 昭和21年(1946年)
1946.1.1
再建後初の第一回法華経講義 (総本山大石寺において)
1946.1.10
池田氏の三兄・開造 復員
 
池田 昭文堂印刷に入社
1946.2.21 
讃岐本門寺は二月二一日に貫首・相馬日鳳師が僧俗会議を開いて日蓮正宗への帰一を決める
1946.3頃 
創価教育学会を「創価学会」と改称し再建
価値論を用いた折伏から生命論を用いた折伏に転換
1946.4.11 
「宗教法人日蓮正宗」を設立登記
1946.4.12 
宗門が讃岐法華寺・同10ヶ寺を帰一
1946.4.30 
日蓮正宗関係資料を連合軍総司令部へ提出
1946.5.1 
創価学会第1回幹部会(学会本部)
綱領、規約などを決定。本部に4人の理事、総務、教学、財務、企画、情報、婦人、厚生、青少年の9部門を設置。東京に10、地方に5支部の設置を決定。
1946.5.15 
宗門 機関紙「宗報」復刊
1946.5.22 
創価学会第2回幹部会(学会本部)
1946.6.1 
『価値創造』復刊
1946.7.11 
讃岐本門寺において本末11ヶ寺帰一奉告法要
1946.8.17 
池田氏の四兄・清信 復員
1946.9.20 
池田氏の二兄・増雄 復員
1946.11.5-6 
御会式(本山)
講頭会において戸田発言 「世間的に有名な信者を会長なり総講頭なりにして、寺院教会から離れて活躍すべきです」(『宗報』第13号)
1946.11.17
牧口の三回忌法要
創価学会第1回本部総会(東京・神田の教育会館)
1946.12.25 
日達御尊師 庶務部長就任
1946.12.26 
日昇上人 管長となる
 
戸田「出版用紙詐欺事件」
一九四六・一二・二六( 昭和二十一年十二月二十六日―著者) 戸田甚一  用紙代金弁明  返信保留 
という事務処理をすると同時に、その処理用紙の欄外には、わざわざ、「戸田氏、世間師(ペテン師)の正体を現す。不快。返信無用」と記入されている。

C・I・C(米軍特務機関)の供述・調査書
① 思想的には、国粋主義者であるが、軍部や官憲には反抗的であり、事業意欲旺盛だが、何一つ成功したものはないと述べる。
② 狂信的な仏教団体を指導するが、本人はすべて計算ずくで動くタイプだから、ことさらその信仰に狂信的であることはないと述べる。
③ 共産主義に対する態度(本人は共産主義は受け入れられないし、性格的にも大変に嫌いだと言う)
④ 酒くせがが悪く女くせも悪く友人間の信用もない。(酒くせがあり、おんなのクセも悪い。金にもルーズで多くの友人が迷惑している)
(邪教集団・創価学会 室生忠・隈部大蔵著)

 昭和22年(1947年)
1947.1.7
日満・日昇座替式
1947.3
池田氏 東洋商業学校卒業。昭文堂を退社し、蒲田工業会に勤務
1947.5.30 
池田氏の長兄・喜一 戦死の報告届く
1947.7.18 
日満 法を日昇へ付す
1947.8.14 
池田氏 創価学会の座談会に参加 (蒲田・三宅宅)
1947.8.24 
池田大作氏、日蓮正宗に入信
池田氏の当時の心境
「三十分間ほどいりませんとがんばったんです。すると幹部の人がなだめて、むりやり私に押しつけました」、また「家に帰っても三日間おがまずにほっておきました。三日目にものすごい雷が鳴って、私の上ばかりでゴロゴロ鳴って、私ばかり狙っているように思ったので、その時思わず南無妙法蓮華経と口をついて出ました」(小口偉一編『宗教と信仰の心理学』)
 池田氏は同級生の三宅妙子さんの姉に誘われ、三宅家で行われている座談会に出席したことから学会との出会いが始まる。 学会活動家の家庭では家族全員が学会に入ることが常識だが、池田氏は親兄弟を半分ほどしか折伏できておらず、特に父親からは信用されたいなかった模様。また、個人折伏が得意でなかったことを、一緒に折伏しに歩いた経験がある藤原行正氏がのちに暴露している。
1947.9 
池田 蒲田工業会に入社
東京大学南原繁総長「人間革命」について講演
「『人間革命』という言葉は、そもそも戦後、東京大学総長南原繁が卒業式の演説で述べた言葉であった。昭和二十二年(一九四七)の九月の東大卒業式で、南 原は、『人間革命と第二産業革命』と題する講演を行ない、敗戦後の混乱のなかで、人間そのものの革命、『人間革命』が成しとげられねばならないと説いた。 戸田はさっそくこの言葉を借用したわけである。」(『戸田城聖』177ページ)
 1947.10.19
創価学会第2回総会
「日蓮正宗を除いては真の仏教はないということは、文証について、理証について、わたくしの常に説くところで あり、諸君が常に現証について、よく体験せられているところであります」 「けっして、信仰や折伏を、自分の金もうけや都合に利用してはならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは、けっしてでき得ないの で、世にいう悪などということの何千倍の悪であります。学会は名誉のためにも、金もうけのためにも、寄附をもらうためにも、動いてはならないのであります」(創価学会の使命より戸田会長指導)

 昭和23年(1948年)
1948.1
「冒険少年」創刊
1948.1.22
日淳師宗務総監に就任  
1948.3
池田氏 東洋商業学校を卒業
1948.4
池田氏 大世学院(現・富士短期大学)政経科夜間部に入学
1948.9
「冒険少年」から「少年日本」に改題 (10月25日休刊決定)
1948.11.1
ポルノ誌『ルビー』を刊行(翌年9月休刊)。→ 翌年発行される『大白蓮華』にも広告を掲載する。 【画像】➡
1948.11.12
総本山大規模な復興寄付 
各地の寺院・法華講から250万円、創価学会も20万円余
宗門の予算
「昭和二十二年度の予算は僅かに六万三千七百円、町の八百屋さんの今度の所得税にすら、たらない金額で一年間宗門を運営していくのであるから、余り大したことは望めないが実質主義で行く」(『宗報』第18号)



   

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