---SKD創価学会・顕正会脱会ネットワーク---   

 

創価学会の真実の歴史 --昭和24年(1949)〜昭和33年(1958)--

引用表記:(創年)➡『創価学会年表』聖教新聞社  

 昭和24年(1949年)
1949.1.1
『宗報』新年号  
「終戦後、宗門の第一懸案であった寺院教会の復興事業【この事業は昭和24年3月15日をもつて完了】も一通りでき上ったことになりました。いよいよこれ からは宗門本来の布教に全力を傾注し勇猛精進しなければならないと考えます。宗門人の総奮起を御願申上ます」(堀米総監)
「宗門は総力を挙げて堅実なる教化運動を展開し、寺院教会講中は勿論個々の一信徒に至るまで日蓮正宗を名乗るものは宗祖の弟子檀那たるの自覚に、自他の折伏行に突入することを要請する」(教学部長・道応師)
1949.1.3
池田氏(21) 戸田の経営するする日本正学館に入社。少年雑誌の編集に携わる。
早瀬
1949.1.5
池田氏 大田区中央(大森・新井宿)のアパート「青葉荘」に移転  
『冒険少年』の編集長となる
1949.3.29
宗門は12名の全国法華講大講頭を任命。戸田城聖もこの時、任命を受ける。
1949.4.1
日蓮正宗布教教会設置
1949.7.10
機関誌『大白蓮華』発刊  
池田 『大白蓮華』に池田伸一郎のペンネームで「若人に期す」を寄稿
1949.8.16
「宗報」を大日蓮と改称
1949.10.1 
日本正学館倒産
1949.10.24
創価学会第4回総会
「大聖人様のご出世は、われわれのごとき無智な悪人に、大御本尊様を拝ましてやるという一大因縁なのである」「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人々があれば、車にのせて、大御本尊様の御もとへ案内して行くのが、学会の唯一の使命である」(大御本尊様への車引きから )
この時、学会を財団法人にする決議を行う。
1949.10.25 
『少年日本』休刊決定
1949.10.27 
第一回総合座談会(品川・妙光寺)
1949.12.4
学会幹部社員、池田氏らは小口金融・東京建設信用組合に移動

 昭和25年(1950年)
1950.8.10
久遠元初の自受用身のご当体であらせられる大聖人の御肉体が、そのまま大御本尊であらせられるのである」 (戸田会長『凡夫と御本尊』)
1950.8.22
「われわれ末代凡夫の悟りは、大聖人のお悟りを悟りとしなければならないのであるが、とうていおよぶことができないのである」(戸田会長『三種の悟り』)
1950.8.23
東京建設信用組合が大蔵省から営業停止
戸田は その影響がおよばないように、創価学会の理事長職を辞任する。
1950.9-23
日昇猊下 九州地方巡教
1950.10
戸田 手形割引などを行う高利貸し業の大蔵商事(現・日章)を設立し、顧問に就任
この高利貸し業は、学会組織をフルに利用し融資を募る。営業部長に若くして就任し、池田氏の唯一仕事で成功を収めたのはこの高利貸し業だった。現在の額で、200万円ほどの給料を得ている。部下には、中西治雄、吉田顕之助らの学会幹部がいた。
1950.11.27
池田 大蔵商事営業部長に

 昭和26年(1951年)
1951.3.11
東京建設信用組合正式に解散
1951.3.17
高野日深師 宗務総監に就任
1951.4.20
機関紙「聖教新聞」発刊(月3回発行、5000部)
1951.5.3
戸田氏第二代会長に就任(東京・常泉寺)
7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げ、もし出来なかった場合には自分の葬式は出さずに、骨は品川沖に投げ捨てて欲しいとの決意を示した。  
 式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のま まで、それまで理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落した。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、 男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授- 助教授1 講師- 助師の四段階にランクづけされた。池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が 即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。(『池田大作 権力者の構造』三一書房)
1951.6.10
第一回本部婦人部委員会(婦人部)を結成
仏教上、仏と称される方は、かず限りなくおられるが、その、かずかぎりない仏は『時』と『所』と『衆生』とに応じて、一人一人ご出現になることになっている。けっして一度に二人の仏は出現にならないのである」(「折伏論」での戸田会長)
1951.6.10
「僧侶の大功績」 戸田会長指導
「この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食う ことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が多いと攻撃して、功績の方を見ない。この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、か つ一面には、猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである」 (「巻頭言集」)
1951.7.3
財務部結成 (生活にゆとりのある会員を面接で決める、推定で60万人で一人年間4000円)【広布基金・財務について】
1951.7.11
男子青年部結成式(学会本部にて)
1951.7.19
女子青年部結成式(学会本部にて)
1951.8.31
「自分を折伏してくれた恩人は、善知識というのであって、『師にもあらず、弟子にもあらず』という立場なのである。学会において、教化親などとのことばをつかい、折伏した人を、あたかも自分の意志どおりに、動かしてよいのだというような、 あやまった考えをもつものは、断固として処分するゆえに、このさい、はっきり認識しておいていただきたい」 (支部長会での戸田指導)
1951.9.1
講義部を教学部に改称(受講者を1~5級に分ける)
1951.11.18
『折伏教典』発刊
1951.12.13
宗務院より12月18日午後2時登院するよう大講頭戸田城聖へ命令
1951.12.18
宗教法人設立につき三原則了承
宗門は学会の宗教法人設立については法的問題で関知するものではないが、その設立の趣旨及び原則を守る様要望。
1.折伏した人は、信徒として各寺院に所属させること。
2.当山の教義を守ること。
3.三宝を守ること。

戸田会長はこれを了承。
1951.12.20
聖教新聞「宗教法人設立趣旨」発表
「我々の折伏活動が全国的活動となり邪宗との決戦に至る時の大難を予想し本山を守護し、諸難を会長の一身に受けるの覚悟に他ならない、ということ。二つには、将来の折伏活動の便宜から宗教法人でなければならない。」(戸田会長発言)
1951.12
秋谷栄之助 日蓮正宗に入信(後の第5代創価学会会長)

 昭和27年(1952年)
1952.1
池田氏 蒲田支部幹事に
1952.2.9
池田氏 青年部参謀に
1952.3.2
杉並支部第一回総会
「成仏というのは、すごい境涯である。その証拠として、死ぬ前にほんとうの歓喜の生活が送れるのである」
1952.3.10
池田氏『天下を取ろう』 聖教新聞で当時参謀であった池田が常に言っていた言葉を紹介。「同君(池田)は常に言う『天下を取ろう』と」
1952.4.24
「新編 日蓮大聖人御書全集」完成
 
宗旨建立700年慶祝記念大法要(4.24-28)
1952.4.27
狸祭り事件起こる   宗旨建立七百年祭(総本山大石寺)
 戦前、宗門僧侶・小笠原慈聞が唱えた「神本仏迹論」が原因で牧口が逮捕、獄死したと青年部が逆恨みし、牧口の墓前で謝罪状を書かせた事件。これによって戸田は一時、参詣禁止の処分を受ける)  
 事件後、小笠原が医師の診断書つきで発表した手記によると、戸田は″生意気いうな″ と小笠原の右耳、頭を強打し、行動部隊の多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の衣を脱がせてシャツー枚にしたという。(中略) 日蓮正宗側も事件を重視し、その宗会は、戸田の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議した。  
 戸田は早速、巻きかえしに出、幹部に宗会議員を訪ねさせて各個撃破し、決議を事実上つぶした。池田も七月、文京区戸崎町の白蓮院を訪問し、全面取消しを 約束させている。戸田はまた本山には五重塔の修復を申し出て宗会決議の適用をまぬがれたうえ、宗務院の一部役員を小笠原押えこみに動員した。さらに日蓮正 宗信者で創価学会批判者の関戸了三の公表した文書によると、創価学会は総本山宗務院の役員を伊東温泉に招き、芸者をあげて接待したという。こうした戸田の 根まわしによる本山の圧力と三十万円の慰謝料で、小笠原は否応なく手をうたされ、後には創価学会の資金援助で同会との争論を詫びる『日蓮正宗入門』を刊行 するまでに懐柔された。(池田大作権力の構造 三一書房)(『黒い〝鶴〟のタブー』、『赤旗』45年5月1日、1日所蔵)

1952.5.3
池田氏 白木かね(香峯子)と結婚。目黒区三田に移転
1952.5.18
池田氏 情報参謀に
1952.5.23
小笠原慈聞師 「創価学会会長戸田城聖以下団員」による「暴行事件の顛末」と題するパンフレツトを作成して全国の正宗寺院に送付
1952.6.26-29
宗門第47回臨時宗会
4.27の集団暴行の件により
1.戸田城聖の大講頭罷免
1.戸田城聖の登山停止

その他を決定。
1952.7.6
学会 宗会の決議取り消し要求
男子青年部会(池袋・常在寺)
宗会と闘争宣言 【狸祭り事件から】
きょうの会合が、いかに重要であったかは、いままでのお話でよくおわかりのことと思う。 創価学会の目的は、日蓮大聖人様のおことばを虚妄にしないことである。戸田先生は、仏敵たる悪侶をきちんと退治し、その結果が登山停止となった。ここに大 難が現われた。ここで、われわれが戸田先生の旗本として、しっかり先生を擁護するのだと、はっきりと腹に決め、あすからの実践に移す。(当時、男子第四部 隊幹部長 会長講演集第三巻)
1952.7.24
日昇上人 戸田会長に誡告文
1952.7.24
戸田会長 4.27の集団暴行事件につき御詫状を提出。五重塔修復を発願
1952.8.27
宗教法人『創価学会』設立
1952.10.4
月例登山会開始
1952.10.21
女子部「華陽会」が始まる。(戸田の薫陶による女子部の育成)
1952.10.27
「そういう人生をよくみつめ、自分観、人生観、社会観、宇宙観、この四つをきちっとまとめているのが仏法なのです。世間法は、この四つのうちのひ とつにひとつに分離されているので、映画を見ても、これは自分観であるとか、社会観であるというように、はっきりと判断できるような信心になれば、自分の 悩みが解決でき、なんの悩みもない、すばらしい生活ができるのです」 報道班員の質問会
1952.12.16
男子部の人材グループ「水滸会」の初会合(38名) (昭和31年5月まで続く)
次代のリーダーを育成するための"松下村塾"である「水滸会」が発足し、"エリート訓練"が開始されました。以来、昭和五十年代までの創価学会・公明党の 中枢幹部達は、ほとんどが「水滸会」出身者で占められています。この「水滸会」で、後の首脳達へ叩き込まれた"天下盗り"のための戦略戦術を記録したもの が、「水滸会記録」。 さらに、昭和53年ごろ、戸田会長の言行録として、池田氏が密かに副教学部長・佐久間昇に命じて作らせたものが『水滸会遺誡置文二十六箇条』と題する改ざん文書。

内容の一部
「●総理大臣について 今の総理大臣の権力は明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限を持つことができる。自衛隊を動かすことのできる権力を持っている。ある意味では広宣流布しやすくなったな」
「●官庁閥  問 われわれが将来、一番とりにくい所はどこですか。   先生(戸田二代会長のこと) 官庁だな。それには優秀な人を抜擢して先輩が自分より出世させ、 出世したものが又後輩を引き立てて行くしかないな。警察などの場合、警部補、部課長クラスを占めてしまえば強いものだ。将来、二万の青年が各官庁や社会の 重要ポストを占めるようになれば、その仲間同士で何でもできる。だから青年に国家改革を頼む以外にないのだ」
「●日本の広宣流布 『政治家対策』 一人の議員をつかんで、自由に動かすのは、買収費と小遣銭を入れて、一年に四百万円(昭和三十一年当時)かかる。百人で四億円だ。それが一つのホシになる。 四億円あれば日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。」 【詳しくは】➡
1952.12.21
第一回教学試験
1952.12.27
宗教法人 日蓮正宗設立登記

 昭和28年(1953年)
1953.1.20
福島県妙福寺で謗法払い事件
1953.1.2
池田 男子部第一部隊長就任
1953.4.18 
第1回法華経研究会(学会本部分室)
1953.4.19
男子青年部第1回総会
御本尊様は、われわれを幸福にする機械である。最後に、第四に、政治、経済と、諸君の立場についていう。共産主義か、資本主義かという問題がある。わたくしからいえば、どちらでも自由である。これらは、一分科に過ぎない。これらは政治と経済の面からのみ、人類に幸福を与えるだけである」
1953.4.20
池田氏 文京支部長代理に
1953.4.20
池田氏の長男・博正誕生
1953.4.30
福島県妙福寺の謗法檀徒を離檀処分
1953.5
秋谷栄之助論文
相伝がない所に仏法は存在しないし、相伝がない本尊を拝めば、功徳がないばかりか、正法にそくむ謗法である」 「然るに一般日蓮宗は(中略)或いは経巻相承なんどと稱(しょう)し、大聖人様の仏法は唯授一人という狭義ではないなどと、全く総別の二義をわきまえざる僻見を立てている」(大白蓮華・相承の重要性について)
1953.5.17
御書編纂について
事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。猊下は、五十年かかって、日蓮大聖人様の仏法をまとめられ、猊下 の頭にはすでに御書が一冊きちんとはいっている。それだからこそ、御書編纂に、身延でも三年前からかかっているというのに、われわれは一昨年九月に決心 し、昨年四月にできた。しかも、りっぱなものができあがった。これは、猊下たったおひとりの力である。そして、いままでにない御書を編纂できた。これは、 まったく猊下のおかげである。学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである。(戸田聖城全集第4巻 東京・王子百貨店ホール)
1953.5.31
学会建立寄進第一号の正継寺(相模原)落成入仏式
1953.6.21
「わたくしは好きなことをやっている凡夫なのです。もし、わたくしが生き神様とか、生き仏とかいわれるならば、とっくの昔に死んでいます」私は末法の凡夫から
1953.7.21
水滸会を再結成(学会本部・青年部43名)
池田大作による宣誓文起草
一、われら水滸会員は、宗教革命にこの身をささげて、異体同心にして東洋の広宣流布の大偉業を完遂せんことを、大御本尊様にお誓いいたします。
一、われら水滸会員は、戸田城聖先の大目的たる人類救出の御意志を受け継ぎ、その達成には、身命をささげて戦い抜くことを誓います。
一、われら水滸会員は、学会の先駆であるとともに、戸田会長先生の無二の親衛隊なることを自覚して、いかなる事態になろうとも、かつまた、いかなる戦野に 進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、水滸会の使命をまっとうせんことを誓います」(『大白蓮華』昭和39年2月号)
1953.8
創価学会元理事長・矢島周平氏 日蓮正宗の僧として出家
1953.9
『聖教新聞』週刊から日刊に
1953.9.20
 世の中は、正反の原理で成り立ち、貧富、強弱等、さまざまな生活をしている。いったい人間は何のために生まれてきたのか。これを解決してくれるのが仏様であり、末法では日蓮大聖人様である。  
 われわれは、ほんとうは、楽しむために生まれてきたのである。おしるこに少量の塩を加えて甘みを増すごとく、苦しみがあるから楽しめる。そこで、絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない。  
 仏教は、生命を対象とした科学であり、科学は物を対象として研究されている。御本尊様は、われわれ人間を絶対に幸福にしてくださる″機械″であり、この尊い御本尊様が日本の国にあるにもかかわらず、拝まぬのはバカです。  
 次に、邪宗を破折する方法をひとつ教えよう。広宣流布の暁、天皇が御本尊様を拝みたいとおおせられたときに、日蓮大聖人様のお遺しくだされた御本尊様は、いったいどこにあるか。わが大石寺の御宝蔵に、紫宸殿御本尊様がきちんとまします。邪宗には絶対ない。  
 最後に、日蓮正宗の御本尊様を拝めば、絶対に幸福になれる。朝夕の勤行と、年に六人の折伏をつづけたなら、一年後のきょうまでに、現在ある悩みはかならず解決する。心に願いをたてよ。さあ題目を唱えよう。(戸田聖城全集第4巻)
1953.11.13
学会本部 西神田から信濃町に移転完成
戸田は新宿区信濃町三十二番地の元イタリー大使館付武官の私邸(洋館、二階建)を千百五十万円で買い取り、二百万円で改造して創価学会の新本部とした。(池田大作権力者の構造)
1953.11.18
「価値論」(牧口常三郎著)発刊
 
『池田氏 「太作」から「大作」に改名
1953.12.23
男子青年部第2回総会
【宣誓】  戸田会長先生、われわれは末法大折伏の師匠たる、はたまた、全世界の大哲学者たる先生のわれら青年に対する期待の大なることを思いますとき、われら一同、感激の念でいっばいであります。  
いま、五千有余名の勇士の結集をここに終わり、きたるべき七百二年からの大法戦に対し、われらは次のごとき宣誓をなすものであります。
一、われら男子青年部勇士全員は、宗教革命に比の身を棒げ、ともにその心を一にして、東洋広宣流布の大偉業を完遂せんことを、謹んで大御本尊様にお誓いいたします。
一、われら男子青年部勇士全員は、戸田城聖先生の大目的たる、全人類救出の御意思を受け継ぎ、りっばな手駒となって、その達成には身命をささげて戦い抜くことを誓います。
一、われら男子青年部勇士全員は、学会の先駆であり、戸田会長の無二の親衛隊なることを自覚し、いかなる時代になろうとも、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、われらの使命をまっとうせんことを誓います。
右、謹んで宣誓いたします。
昭和二十八年十二月二十三日
男子青年部代表 第一部隊長 池田 大作 (当時、青年部教育参謀、男子第一部隊長) (「会長講演集第三巻」)

さきほど辻君が、折伏の仏であるといわれたが、仏は末法には日蓮大聖人様以外にいない。これは訂正しておき。しからば、私は凡夫である」(戸田指導「すべての階層の指導者」)

 昭和29年(1954年)
1954.1.29
御供養について
登山会の折に、所化小僧さんに御供養するが、あなた方のなかには、小僧さんが喜ぶからと思っている人があるが、 これは正月十五日、代々の御法主猊下が、所化小僧さんにごちそうをする。これは、広宣流布のときに、再び御出現の日目上人様が、もしや、このなかにおいで になるかも知れぬということから、お山の伝統の行事である。私も、登山の折には、その気持ちで御供養申しあげているのです。これが大事なことです。ものの見方がわかれば、ものごとはすべて成就する。(戸田聖城全集第4巻 東京・豊島公会堂)
1954.2.8
戸田 4級講義の後、本部で倒れる
1954.3.28 
鶴見支部第三回総会
「かれらが責められれば身延や中山にならって、三宝を立て、釈迦が仏、法が南無妙法蓮華経、僧は日蓮聖人などという。バカげた三宝です。仏と法はそろわなくてはならない」人法一箇について語る。
1954.3.30
池田大作氏 青年部参謀室長に任命
情報部を設置 池田氏が情報部最高顧問に就任
池田氏 この頃には大蔵商事から離れる
 
この時期の部隊名 人員
第1 1,411 (蒲田) 第2 1,000 (鶴見) 第3 650 (小岩) 第4 594 (足立) 第5 352 (杉並) 第6 361 (向島) 第7 286 (中野) 第8 272 (築地) 第9 221 (本郷) 弟10 191 (文京) 第11 141 (志木) 第12 139 (城東) 第13 435 (仙台) 第14 468 (大阪) 第15 50 (八女)
1954.4.30
青年部大総会(御茶ノ水・中央大学講堂 4000人)
新編成の男女部隊に部隊旗授与
1954.5.3
第10回春季総会(最高首脳陣の交代)
ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましをねがい、畑毛の猊下のお出ましをねがって、われらとしてはこれ以上の名誉はない。来年のきょうまでのあい だに、ほんとうに功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。それでは、私が導師となります。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」 どうか、功徳を祈っていただきますように。(戸田聖城全集第4巻 東京・両国の国技館)
1954.9.4
水滸会第一回野外訓練(奥多摩・氷川キャンプ場)
1954.10.31
青年部一万名総登山
 
『大白蓮華』39号
彼等の迷論は実に相承に総別の二義即ち法体・法門相承の二義があるのを知らぬ事から生ずるのである
1954.11.7
青年部 初の体育祭「世紀の祭典」を開催(下高井戸・日大グランド)
1954.11.22
「文化部」を設置
1954.12.13
渉外部設置 池田氏が渉外部長に就任

 昭和30年(1955年)
1955.1.24
「蓮華寺事件」
日蓮正宗の寺(のちに離脱)に対する威迫行為
1955.1.28
池田氏の次男・城久誕生
1955.2.4-10
布教師 名古屋地方巡回
1955.2.21-27
布教師 関西地方巡回
1955.2.26
読売新聞社に抗議
池田渉外部長らは「はびこる創価学会・県下の信徒五千名」と掲載されたことに読売新聞本社、浦和支局に抗議。
1955.3.5-15
布教師 福島県巡回
1955.3.8-16
布教師 北海道地方巡教
1955.3.10
小樽法論(小樽市公会堂) 
日蓮宗身延派と公開法論 昭和30年3月、創価学会の大進出による檀家の減少にたまりかねた 身延派では、学会員の少なかった北海道小樽で、法論対決を迫ってきた。(日蓮正宗教学小辞典創価学会教学部編より、S47年版)
 
戸田会長「創価学会はいつ、つぶれてもいい」  
 有名な小樽法論というものがありますが、ちょうどその時は、日蓮正宗の宗務院の役職員も小樽に行っておったようでありまして、私はその時にはまいりませんでしたが、その法論のあとで、僧俗が集まっての会合があったようであります。  
 その時に戸田氏が、「創価学会はいつ、つぶれてもいいのである。しかし、宗門だけは絶対につぶしてはいけない。宗門のための創価学会である」という旨のことをはっきりと言われたということを、その席に在って聞いておられた方が日記に書いておられたのです。その日記を見て、先日、私の所に持ってきたのが、本日ここにも来ておりますが、品川の妙光寺の住職で、宗務院の海外部長でもある尾林広徳師であります。  
 この尾林海外部長は、その日記を書いた本人、つまり元の妙光寺の住職で、当時の宗務院庶務部長を務められていた柿沼広澄師、のちの大東院日明贈上人の弟子でありますので、その関係でその日記を読む機会があったのであります。  
 まさしく戸田氏は、今後の創価学会のことを慮って、常に色々な所で、「あくまで正しく法を護るべきである。そのところに創価学会の本当の目的といい、存在の理由が存するのである」ということを述べておるのであります。  
 したがって、戸田会長のころの創価学会の在り方は、その根本精神において、あくまで総本山が根本であり、そのための創価学会であるという気持ちの上から、あの大折伏が遂行されたということが、はっきりと言えるのであります。(平成4年3月29日 法華講連合会 第二回壮年部の大会の砌 日顕猊下 『大日蓮』H4.5月号)
1955.4
文化部員から統一地方選に出馬
都議、横浜、川崎市議など52名が当選
1955.5.29
男子部一万名登山
1955.6
池田氏 大田区東矢口(小林町)に移転
1955.7
『大白蓮華』7月号 戸田会長指導
心構えが一切衆生の為なら、勝手に御本尊を書写しても御利益があると思い込んでいるから、やたらにニセマンダラがとび出すのである
1955.8.24
北海道地方折伏講演会
われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。 そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の 大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです。(戸田聖城全集第4巻 札幌市商工会議所)
1955.9.18
わが日運正宗は絶対に幸福になるか。なぜなら、大聖人様の本懐である三大秘法の弘安二年十月十二日の大御本尊様が、おすわりあそばされているからです。(東京・中央大学講堂)
1955.10.31
「会員には、いっさい心配をかけない。金はぜんぶ自分がつくるという気持ちのなかに楽しさを感じていた。信心とは金に通ずるものではない」学会員に負担をかけるなから
1955.11.5-12
布教師 北関東地方巡回
1955.11.19
毎日新聞「学会の折伏は破防法に抵触」と報道
「最近創価学会などの新興宗教が軍隊化した組織を利用、なかば暴力的に信者獲得運動を行っている。まだ事情を調査する程度だが、影響ある場合、破防法を適用するつもりである」との談話が掲載されている。(昭和30年11月19日付 毎日新聞)
1955.11.23
奉安殿落成入仏法要並びに大御本尊御遷座法要
1955.12.13
関西本部入仏 落慶式
「大聖人のおせられるのは、祈りは必ずかなう。それには時がある。良き法と、良き師と、良き檀那との三つが、そ ろわなければだめなのです。南無妙法蓮華経、これは良き法にきまっている。大御本尊様は良き法なのです。また御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、 私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、必ず功徳が出てくる。ただ良き檀那として、その代表として、その位置にすわれたことを、私は、ひじょうに光栄とするものであります」 戸田指導

 昭和31年(1956年)
1956.1.29
猊座の事には一切関知せぬ破る者は除名
「先代牧口先生当時から学会は猊座の事には一切関知せぬ大精神で通して来たし、今後もこの精神で一貫する。これを破る者はたとえ大幹部といえども即座に除名する」戸田会長『信者の大精神に立て』『聖教新聞』
1956.3.29
日淳 管長に就任
日昇・日淳座替式
1956.3.30
日昇 法を日淳へ付す
1956.5.1
「本門戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし、重大使命であるとしても、もし本門戒壇が、現在の状態で建立されたとした ら、どんな結果になるであろうか。一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するならば、現今の皇太神宮や、明治神宮のごとき扱いを受 けるであろう。しからば『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』とのご聖訓のように、国に災難がおこるであろう。ゆえに、本門戒壇建立の 大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。」戸田会長・本門戒壇建立について指導
1956.5.31 
日達 総監に就任
1956.7.10
参院選に進出3名が当選
選挙違反容疑で多数の学会員が逮捕されるが、日本の国連参加の恩赦として釈放される。
 
『大白蓮華』第62号
「即ち末法の現在においては、絶対に戒壇の大御本尊様こそ、われわれが即身成仏できる生身の御本尊様であらせるのであります。また、わ れわれがいただいている御本尊様も、文底事の一念三千、真の草木成仏の理によって開眼された、これもまた生身の御本尊様であります。この御本尊こそ、真の 木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対にないえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であり ます」 戸田指導
1956.7 
戸田会長「衆議院には候補者を立てない」週刊朝日7/29号
1956.7.22
鼓笛隊発足(33名)
1956.8.10 
戸田会長 学会解散について明言
岡山市妙霑寺の落慶入仏式の折に、第六十五世日淳上人に対したてまつり、「将来、もし学会が大きくなって、宗門に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするよう なことがあったら、いつでも解散をお命じください。」 と申し上げた。
1956.8.14 
【指導者】  『信心と申すは別にはこれなく候』(妙一尼御前御返事1155ページ)とあるが、かんたんにいえば、朝晩の勤行をきちっとすること、そして自分の悩みを赤ん坊の気持ちで御本尊様に訴えることで、自己が安心立命して、生命力豊かに生活できればよいのです。 (男子部班長会 当時、参謀室長 会長講演集第三巻)
1956.8 
「我らが政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経の広布流布にある。即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである」大白蓮華8月号
1956.9.1 
「大日蓮」板本尊偽作論特集破折号(大日蓮127)
1956.9.29 
お山への供養
このまえ、大講頭という職名がお山に決まりまして、私も全国大講頭の一人になったんですが、お山へお金をあげたら、収支決算書を出せという大講頭がおった。それで私はけんかしたのです。ふざけるな! というのです。お山へ金を供養して、坊さんがどのように使っても、使ったほうの罪で、出したほうの罪ではないですから。そうでしょう。どういうことでも、お山から収支決算書を出したということはない。だから、それはいかんといった。私も、私がヘたにその金を使えば、罰は私にでる。だから、それは使いませんが。(東京・豊島公会堂)
1956.12.10 
池田氏の父・子之吉氏(68)逝去
父から勘当されたことがある池田大作は、父を折伏できずに終わる。 結局、邪宗教である真言宗で父親の葬儀を出したのである。 この墓とは別に、 昭和三十九年四月、高尾墓園に池田大作が新しい墓を建立。父の法名・種田院法子日実居士をいただく 【資料】➡

 昭和32年(1957年)
1957.4.7
保田妙本寺・末寺4カ寺帰一奉告法要(大石寺御影堂)
1957.6.30
学生部結成大会(麻布公会堂)
1957.7.2
創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります。(当時、参謀室長 会長講演集第三巻)
1957.7.3
小説『人間革命』(戸田城聖著)発刊
1957.7.4
参院選補選選挙違反 -大阪事件-
小泉理事長、池田氏らの在京幹部が大阪で行われる参院補選の選挙運動において指揮を執り、それによって多数の学会員が選挙違反で逮捕され有罪となる。池田 氏も逮捕され「戸田先生へ責任が及ばないため」として全面自供。のちの裁判では無罪となる。この事件を学会は反省せず"法難"と称する。 この事件では20人の有罪者が出る。罰金1万円から3000円、その内10人は公民権を三年間停止、7人には同二年の停止という判決が下る。 「創価学会幹部四十五人起訴 ・大阪発・大阪地検は、去る四月行われた参議院大阪地方区補欠選挙での創価学会幹部らの公選法違反事件について、二十九日、同学会本部理事長、東京都議小 泉隆(四八)・東京都大田区蒲田五ノ一一・ら四十五人を買収で(うち二人は略式起訴)、同渉外部長池田大作(二九)・同区調布小林町三八八・ら三人を戸別 訪問で、それぞれ起訴した。起訴状によると、この選挙で、小泉理事長は主として"実弾作戦"を、池田渉外部長は戸別訪問をそれぞれ担当、現地で指揮に当た り、大阪、船場、松島、梅田、堺の五支部に『選挙係』を設け、府下六万信者のほとんどを戸別訪問に動員したもの。投票数日前には"タバコ戦術"として職安 十数カ所で、日雇労務者に候補者名を書いたピースなど約四千個をバラまいたという」(『朝日新聞』昭和三十二年七月二十九日夕刊)【詳しくは】➡

池田室長は同月17日に出獄
1957.7.7
「わしの力あるかぎりは、断じて政党などやらんぞ」 『総合』7/7号での戸田会長指導
1957.7.17
池田氏 大阪拘置所を出所
大阪大会に出席 【大阪事件に叫ぶ】
 皆さまたいへんしばらくでございました。また、場外にもたくさんの同志がいらしているそうですが、場内の皆さま、場外の同志の皆さま、しばらくでござい ました。  このたびは、たいへん長いあいだ御心配をおかけしましたが、本日正午に大御本尊様の加護を受けながら、元気いっぱいでこのように出所してまいりました。 ありがとうございました。  すべてのことはぜんぶ、大御本尊様が見通しであると、私は信ずるものであります。会長先生は、三類の強敵のなかにも僣聖増上慢があらわれてきた、このよ うに申されており起ますが『大悪をこれば大善きたる」(大悪大善御書1300ページ)との日蓮大聖人様の御金言のごとく、私もさらに、より以上の祈りきっ た信心で、皆さまとともに広宣流布に邁進すると決心するしだいであります。  最後は、信心しきったものが、大御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が必ず勝つという信念でやろうではありませんか。 どうか会長先生のま ことの弟子として、おたがいに、より以上の信心を磨いて、絶対的幸福をつかむためにも、大聖人様の御金言である、御予言である広宣流布成就のためにも、  一生懸命にさらに励んでいきたいことを誓い合って、あいさつにかえます。(当時、参謀室長 会長講演集第三巻)
1957.8.30
日向定善寺において本末6ヶ寺を帰一奉告法要
1957.9.8
若人の祭典(横浜・三ツ沢競技場)
戸田 原水爆禁止宣言
1957.10.18
池田氏 入信の真実語る
「私が信仰したのは、丁度今から十年前の八月二十四日です。……折伏されたのは、前の本部です。前の本部は会長先生が事業をなさっていらっしゃった二階の 八畳と六畳の二間でした。……そこで多くの広宣流布の人材が毎日会長先生の御講義をきいたんです。私はそこで教学部長から折伏されたんです」(「聖教新 聞」昭和32年10月18日)
1957.10.31
本部幹部会 戸田 最後の出席
1957.12.13
会員世帯数75万世帯に
1957.12.17
宮崎県児湯郡本蓮寺帰一入仏式
1957.12.18
宮崎県日南市本照寺帰一入仏式

 昭和33年(1958年)
1958.2.13
男子部幹部会(豊島公会堂)
池田「大御本尊様を中心にして鉄の如く団結しよう」(年譜・池田大作)
1958.2.14
「会長就任以来七年になるが、私は七年目ごとに難に逢っている。今度の病魔も打ち破ったのだ から、もう七年また会長としてがんばるから一つよろしく頼む。… …『源深ければ流れ遠し』の通りで、要するに学会の振興は会長自身がしっかりしなければならん。… …明日から以前と同じように本部へ行って指揮をとる」(戸田会長指導)
1958.3.1
法華本門大講堂の落成慶讃大法要  【資料】➡
 
戸田会長 池田氏を叱る
手紙で触れた三月一日の「大講堂落慶大法要」―
 静岡県知事を始め多くの来賓を招いての大事なセレモニーの場面でも、池田はどこかにいなくなっていた。戸田先生が「池田を探して来い! 」と命ぜられ、ジリジリしながら待っていると、池田はエレベータの所に現われた。それを見つけた戸田先生が、大声を張り上げ、「何故、大事な時に俺の側に いない! 俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだっ! 」と、池田を怒鳴りつけた。 池田は、恐縮するでもなく、「いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係をしているほうが相応しいので… … 」と謙遜ぶった言い訳をしていたが、その表情は、叱り飛ばされた屈辱で見るからにムッとしていた。戸田先生は、池田をそのまま置いて、一人でエレベータに 乗って祝賀会に出席された。 戸田先生はそれまで、池田を公衆の面前で叱りっけることなどなかった。池田の態度がよほど腹に据え兼ねたのだろうと、我々はみな驚いたものだ。  



のちに池田は、「このエレベータの前で、次の会長はお前だ、という相承を受けた」とある人に語っている。これは、とんでもない大ウソである。  今から思い返せば、池田はこの頃から、次第に戸田先生と距離をおくようになっていたようだ。
 戸田先生が「敵は内部だ」と私にいわれたのは、まさにこの事件の後だ。 先生はこの日の式典でスピーチされ、「日蓮正宗の敵はすべて倒した。身延にもペンペン草を生やした。御書全集も編纂した。自分にはもう思い残すことは何も ない… … 仏法でいう『諸願満足』である」と、あたかも自分の死期を悟られたかのような趣旨の話をされた。 私はそれを聞いて、別の意味で驚いた。というのも、私は常に先頭に立って学会の敵と戦うことが自分の存在意義だと思ってきた男である。それなのに、学会の 敵がなくなってしまっては、生きがいがなくなってしまうではないか。そこで、宿坊に引き揚げ、横になっておられる先生の枕元に行き、「先生、これから先 は、学会は何を敵として戦えばいいんですか」と問うた。すると先生は、すっくと体を起こして、「いいことを聞いてくれた。敵は内部だ。敵は内部だ」と繰り 返しいわれた。 その時、私はこの言葉を漠然と、「より団結を固めよ」という意味に理解した。しかし、今にして思えば、昼間の会場での叱責と合わせ考えれば、「内部」の指 す意味はより具体的だったことがわかる。 池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めて きた、学会にとって最も害のある行動である。実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー( 北条浩、森田一哉、中西治雄、星野義男等) に自分を「先生」と呼ばせていたことを、私は後で知って愕然とした。あの時、戸田先生は内心? 学会の敵は、池田のような男だ」といいたかったのではないか。 (『池田創価学会を解散させよ』 龍年光著)
1958.3.22
戸田 公の会合、最後となる理事会に出席
1958.3.28
的場暴力事件
創価学会(池田氏ら)は大石寺の境内で、大石寺の所化頭である的場正順師に対するリンチ集団暴行事件を引き起こした。この事件は、日蓮正宗宗門に対する威 嚇・威圧のために池田氏が、側近の星野義雄登山部長らの青年部員と立案、実行したもので、大石寺内事部で修行している所化・小僧を統括する立場にある所化 頭の的場師を、大石寺境内を流れる潤井川の水に沈め、暴行を加えたというものである。

「追撃の手をゆるめるな」の捏造
「戸田先生は、(宗門攻撃の)追撃の手をゆるめるな、といわれた」と。 これは池田の完全な「捏造」である。なぜなら、戸田先生はたとえどのような理由があるにせよ、日蓮正宗の僧侶に対するこのような暴力行為を認めるはずがな いからだ。 戸田先生は終生、日蓮正宗の僧侶を心から尊敬され、学会に対して、それを身をもって示されてきた。特に、修行中の所化・小僧さんに対しては、親のように可 愛がってこられた。戸田先生は毎年、正月に登山された折、ご自分の宿坊(理境坊)に所化・小僧さんの全員を招待して、衣を差し上げるという儀式を行なって いた。彼らを御本尊様の前の上座に並ばせ、自らは下座に坐り、恭しく一人一人に新調の衣を差し上げるのだ。この衣は、それぞれの寸法に合わせて、予め東京 で作らせたものだった。 そして、ご馳走をし、お土産を持たせて大坊へお帰しする。先生はその理由を、私たちにこう教えた。「この中から、必ず将来の猊下がおでましになるのだ」 と。その先生が、若い所化たちが親代わりと慕う所化頭に対する暴行に対して、「追撃せよ」などとおっしゃるはずがない。(『池田創価学会を解散させよ』 龍年光著)
※「追撃の手をゆるめるな」とは、的場師リンチ事件直後、理境坊で安静していた戸田会長のもとへ池田氏一人がこの事件を報告し、遺訓としていただいた言葉であると学会内に流布している指導である。つまり誰も証人は存在していない。
 
第三代会長は「お前達で決めるんだ」
 この儀式(※3・16)の後、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事だちと、池田・北条・森田・龍の 四参謀が揃って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際はっきり池田を三代会長に指名しても らおうというハラづもりだったようだ。辻は「大久保彦左衛門」と渾名され、どんな場面でも物怖じせずにズバッと物をいう男だった。この時も、病の先生の枕 辺で、当然のような顔をして、「先生、三代会長は誰にするんですか」と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で、「それは、お前たちが決める んだ」と答えられた。当然、「池田」という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう一度同じことを聞いたが、返事は同じであった。
1958.4.2
戸田会長 急性心衰弱のため逝去 (58歳) 日大病院
学会幹部は誰も立ち会っていなかった。 死後駆けつけた池田は後に、「戸田先生の死ぬときは大変だった」と語っているが、「死ぬとき」とは死の瞬間の時ではない。

戸田氏は、死を前にし、近親者に「今度の病気はいままでと違う。これも、僧侶をいじめた罰かもしれない。」と語っている。
 
臨終のとき、学会幹部はいなかった
 戸田先生は、本山で最後を迎えるつもりでおられたが、一切の行事が終了したので小泉理事長がお願いして、三月三十一日下山し、日大病院へ入院して頂くこ とになった。理境坊へ駆けつけてこられた奥様に、「あなたたちは何ですか、戸田がこんな状態になるまで、こんな寒い所に置いておくなんて!」と、涙声で叱 られたのを私は覚えている。
 戸田先生は、四月二日奥様にみとられながら息を引き取られた。 先生は常々、奥様に、「俺は全国を飛び回っているが、死ぬときはお前の手を握って死ぬよ」と、いっておられたと聞いていたが、まさにその通りの最期となった。 そのとき、病室には学会幹部は誰もいなかった。全員学会本部に詰めていた。 臨終のときが迫っていることをわかっておられた戸田先生は、学会に対する遺言はすべて本山で済ませて、いまは一人の人間として家族に看とられながら静かに霊山に旅立たれたのである。(『有徳王』龍年光)
1958.4.3
御法主堀米日淳上人は、戸田先生の訃報を聞かれ直ちに下山され、午前二時頃の富士駅発の列車で上京され目黒の戸田先生の自宅に、四月三日午前五時頃到着された。 二階の居間の御本尊様の前に安置されていた戸田先生の御遺体に、ねんごろに読経唱題された後、辞去された。(『有徳王』龍年光)
1958.4.3 
小泉理事長談
「先生の御遺言は特にありませんが、先生といたしましての遺言はただただ、先生がここに、立派なわれわれの生きるべき道を示して下さったことです。あとは『先生に続いて行け』というしかないと思うんであります」(聖教新聞昭和三十三年四月三日付)
1958.4.8 
常在寺で戸田の告別式(12万人が焼香)
1958.4.11 
池田氏の三男・尊弘誕生
1958.4.18 
敵は内部だよ
「(龍年光が)『先生、身延も既に敵でなくなった。ジャーナリストも敵ではない。一体、学会の敵は何ものでしょうか』とおうかがいしましたところ、先生は体を起されてはっきりと『それは内部だよ』とおっしやいました」(『聖教新聞』33年4月18日)
1958.4.20 
学会葬(青山葬儀場)
会員25万人が参列、岸首相、安井都知事らが出席)  
4千万円の香典を池田氏が没収、四十九日後、戸田家へ一部を返却
1958.5.3 
第十八回春季総会
理事長・小泉隆は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創価学会という列車を走らせていくのが我々のつとめだ、と演説。(『池田大作権力者の構造』溝口敦)
1958.6.30 
池田氏 「総務」に就任
青年部参謀室長を兼務  会長ポストを巡る池田氏の策略はじまる
1958.9.14 
「仏さまは、ウソをつかないと私は信じます。また、会長先生もウソはつきません。仏さまです」 池田発言
1958.12.15 
日淳猊下 大石寺大講堂前庭園に戸田会長の歌碑を建立
 
戸田会長指導
私は日蓮正宗の信者であって、創価学会の信者ではないと思っている」 「創価学会に君らに信心してもらうものなんか何もないよ」
戸田会長遺言集➡

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