創価学会の真実の歴史 --昭和24年(1949)〜昭和33年(1958)--
引用表記:(創年)➡『創価学会年表』聖教新聞社昭和24年(1949年) |
「終戦後、宗門の第一懸案であった寺院教会の復興事業【この事業は昭和24年3月15日をもつて完了】も一通りでき上ったことになりました。いよいよこれ からは宗門本来の布教に全力を傾注し勇猛精進しなければならないと考えます。宗門人の総奮起を御願申上ます」(堀米総監) 「宗門は総力を挙げて堅実なる教化運動を展開し、寺院教会講中は勿論個々の一信徒に至るまで日蓮正宗を名乗るものは宗祖の弟子檀那たるの自覚に、自他の折伏行に突入することを要請する」(教学部長・道応師) | |
『冒険少年』の編集長となる 池田 『大白蓮華』に池田伸一郎のペンネームで「若人に期す」を寄稿 | |
「大聖人様のご出世は、われわれのごとき無智な悪人に、大御本尊様を拝ましてやるという一大因縁なのである」「わたくしたちは、無智な人々をみちびく車屋である。迷っている人々があれば、車にのせて、大御本尊様の御もとへ案内して行くのが、学会の唯一の使命である」(大御本尊様への車引きから ) この時、学会を財団法人にする決議を行う。 |
昭和25年(1950年) |
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昭和26年(1951年) |
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7年間で75万世帯を折伏することを目標に掲げ、もし出来なかった場合には自分の葬式は出さずに、骨は品川沖に投げ捨てて欲しいとの決意を示した。 式後、戸田は新組織機構と人事を発表した。筆頭理事に和泉覚、理事に柏原ヤス、森田悌二、馬場勝種、小泉隆、原島宏治、辻武寿をあて、理事長は空席のま まで、それまで理事長・矢島周平をヒラの理事からも追い落した。各部の部長は、指導監査に矢島、財務和泉、講義原島、指導柏原、婦人和泉みよ、青年辻、 男子牛田寛、女子小島栄子、企画原島、秘書室石田次男という構成で、講義部の部員は教授- 助教授1 講師- 助師の四段階にランクづけされた。池田はただ講義部の最後尾の助師と、蒲田支部の大森地区委員に任命されたにすぎなかったが、それでも、創価学会の発展が 即、池田の出世という位置にかろうじて連なっていた。(『池田大作 権力者の構造』三一書房) 「仏教上、仏と称される方は、かず限りなくおられるが、その、かずかぎりない仏は『時』と『所』と『衆生』とに応じて、一人一人ご出現になることになっている。けっして一度に二人の仏は出現にならないのである」(「折伏論」での戸田会長) 「この教団存立の目的たる広宣流布において、なまけているものが、おったりするものだけを見るから、宗祖大聖人のお衣の袖にかくれ、仏飯を腹いっぱい食う ことを、唯一の願いであるとしている猫坊主が多いと攻撃して、功績の方を見ない。この教団の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、か つ一面には、猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない。かかる近視眼的かつ部分観的、一時的に観察せずに、大聖人ご出世のご本懐より、または仏法の大局視よりなすなら、口にも筆にも表わせぬ一大功績が、この教団にあるのである」 (「巻頭言集」) 宗門は学会の宗教法人設立については法的問題で関知するものではないが、その設立の趣旨及び原則を守る様要望。 戸田会長はこれを了承。 「我々の折伏活動が全国的活動となり邪宗との決戦に至る時の大難を予想し本山を守護し、諸難を会長の一身に受けるの覚悟に他ならない、ということ。二つには、将来の折伏活動の便宜から宗教法人でなければならない。」(戸田会長発言) |
昭和27年(1952年) |
「成仏というのは、すごい境涯である。その証拠として、死ぬ前にほんとうの歓喜の生活が送れるのである」 | |
戦前、宗門僧侶・小笠原慈聞が唱えた「神本仏迹論」が原因で牧口が逮捕、獄死したと青年部が逆恨みし、牧口の墓前で謝罪状を書かせた事件。これによって戸田は一時、参詣禁止の処分を受ける) 事件後、小笠原が医師の診断書つきで発表した手記によると、戸田は″生意気いうな″ と小笠原の右耳、頭を強打し、行動部隊の多数も殴る蹴るの暴行を働き、彼の衣を脱がせてシャツー枚にしたという。(中略) 日蓮正宗側も事件を重視し、その宗会は、戸田の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議した。 戸田は早速、巻きかえしに出、幹部に宗会議員を訪ねさせて各個撃破し、決議を事実上つぶした。池田も七月、文京区戸崎町の白蓮院を訪問し、全面取消しを 約束させている。戸田はまた本山には五重塔の修復を申し出て宗会決議の適用をまぬがれたうえ、宗務院の一部役員を小笠原押えこみに動員した。さらに日蓮正 宗信者で創価学会批判者の関戸了三の公表した文書によると、創価学会は総本山宗務院の役員を伊東温泉に招き、芸者をあげて接待したという。こうした戸田の 根まわしによる本山の圧力と三十万円の慰謝料で、小笠原は否応なく手をうたされ、後には創価学会の資金援助で同会との争論を詫びる『日蓮正宗入門』を刊行 するまでに懐柔された。(池田大作権力の構造 三一書房)(『黒い〝鶴〟のタブー』、『赤旗』45年5月1日、1日所蔵) | |
4.27の集団暴行の件により 1.戸田城聖の大講頭罷免 1.戸田城聖の登山停止 その他を決定。 男子青年部会(池袋・常在寺) 宗会と闘争宣言 【狸祭り事件から】 きょうの会合が、いかに重要であったかは、いままでのお話でよくおわかりのことと思う。 創価学会の目的は、日蓮大聖人様のおことばを虚妄にしないことである。戸田先生は、仏敵たる悪侶をきちんと退治し、その結果が登山停止となった。ここに大 難が現われた。ここで、われわれが戸田先生の旗本として、しっかり先生を擁護するのだと、はっきりと腹に決め、あすからの実践に移す。(当時、男子第四部 隊幹部長 会長講演集第三巻) 次代のリーダーを育成するための"松下村塾"である「水滸会」が発足し、"エリート訓練"が開始されました。以来、昭和五十年代までの創価学会・公明党の 中枢幹部達は、ほとんどが「水滸会」出身者で占められています。この「水滸会」で、後の首脳達へ叩き込まれた"天下盗り"のための戦略戦術を記録したもの が、「水滸会記録」。 さらに、昭和53年ごろ、戸田会長の言行録として、池田氏が密かに副教学部長・佐久間昇に命じて作らせたものが『水滸会遺誡置文二十六箇条』と題する改ざん文書。 内容の一部 「●総理大臣について 今の総理大臣の権力は明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限を持つことができる。自衛隊を動かすことのできる権力を持っている。ある意味では広宣流布しやすくなったな」 「●官庁閥 問 われわれが将来、一番とりにくい所はどこですか。 先生(戸田二代会長のこと) 官庁だな。それには優秀な人を抜擢して先輩が自分より出世させ、 出世したものが又後輩を引き立てて行くしかないな。警察などの場合、警部補、部課長クラスを占めてしまえば強いものだ。将来、二万の青年が各官庁や社会の 重要ポストを占めるようになれば、その仲間同士で何でもできる。だから青年に国家改革を頼む以外にないのだ」 「●日本の広宣流布 『政治家対策』 一人の議員をつかんで、自由に動かすのは、買収費と小遣銭を入れて、一年に四百万円(昭和三十一年当時)かかる。百人で四億円だ。それが一つのホシになる。 四億円あれば日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。」 【詳しくは】➡ |
昭和28年(1953年) |
「御本尊様は、われわれを幸福にする機械である。最後に、第四に、政治、経済と、諸君の立場についていう。共産主義か、資本主義かという問題がある。わたくしからいえば、どちらでも自由である。これらは、一分科に過ぎない。これらは政治と経済の面からのみ、人類に幸福を与えるだけである」 「相伝がない所に仏法は存在しないし、相伝がない本尊を拝めば、功徳がないばかりか、正法にそくむ謗法である」 「然るに一般日蓮宗は(中略)或いは経巻相承なんどと稱(しょう)し、大聖人様の仏法は唯授一人という狭義ではないなどと、全く総別の二義をわきまえざる僻見を立てている」(大白蓮華・相承の重要性について) 事実、猊下は、学会の力をつけるために、もったいなくも、生まれてきておられるのである。猊下は、五十年かかって、日蓮大聖人様の仏法をまとめられ、猊下 の頭にはすでに御書が一冊きちんとはいっている。それだからこそ、御書編纂に、身延でも三年前からかかっているというのに、われわれは一昨年九月に決心 し、昨年四月にできた。しかも、りっぱなものができあがった。これは、猊下たったおひとりの力である。そして、いままでにない御書を編纂できた。これは、 まったく猊下のおかげである。学会がこれほどに教学の力があるのは、猊下がいらっしゃればこそである。このように猊下は、学会出現のためにご出現になられたのである。(戸田聖城全集第4巻 東京・王子百貨店ホール) 池田大作による宣誓文起草 一、われら水滸会員は、宗教革命にこの身をささげて、異体同心にして東洋の広宣流布の大偉業を完遂せんことを、大御本尊様にお誓いいたします。 一、われら水滸会員は、戸田城聖先の大目的たる人類救出の御意志を受け継ぎ、その達成には、身命をささげて戦い抜くことを誓います。 一、われら水滸会員は、学会の先駆であるとともに、戸田会長先生の無二の親衛隊なることを自覚して、いかなる事態になろうとも、かつまた、いかなる戦野に 進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、水滸会の使命をまっとうせんことを誓います」(『大白蓮華』昭和39年2月号) われわれは、ほんとうは、楽しむために生まれてきたのである。おしるこに少量の塩を加えて甘みを増すごとく、苦しみがあるから楽しめる。そこで、絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない。 仏教は、生命を対象とした科学であり、科学は物を対象として研究されている。御本尊様は、われわれ人間を絶対に幸福にしてくださる″機械″であり、この尊い御本尊様が日本の国にあるにもかかわらず、拝まぬのはバカです。 次に、邪宗を破折する方法をひとつ教えよう。広宣流布の暁、天皇が御本尊様を拝みたいとおおせられたときに、日蓮大聖人様のお遺しくだされた御本尊様は、いったいどこにあるか。わが大石寺の御宝蔵に、紫宸殿御本尊様がきちんとまします。邪宗には絶対ない。 最後に、日蓮正宗の御本尊様を拝めば、絶対に幸福になれる。朝夕の勤行と、年に六人の折伏をつづけたなら、一年後のきょうまでに、現在ある悩みはかならず解決する。心に願いをたてよ。さあ題目を唱えよう。(戸田聖城全集第4巻) 戸田は新宿区信濃町三十二番地の元イタリー大使館付武官の私邸(洋館、二階建)を千百五十万円で買い取り、二百万円で改造して創価学会の新本部とした。(池田大作権力者の構造) 【宣誓】 戸田会長先生、われわれは末法大折伏の師匠たる、はたまた、全世界の大哲学者たる先生のわれら青年に対する期待の大なることを思いますとき、われら一同、感激の念でいっばいであります。 いま、五千有余名の勇士の結集をここに終わり、きたるべき七百二年からの大法戦に対し、われらは次のごとき宣誓をなすものであります。 一、われら男子青年部勇士全員は、宗教革命に比の身を棒げ、ともにその心を一にして、東洋広宣流布の大偉業を完遂せんことを、謹んで大御本尊様にお誓いいたします。 一、われら男子青年部勇士全員は、戸田城聖先生の大目的たる、全人類救出の御意思を受け継ぎ、りっばな手駒となって、その達成には身命をささげて戦い抜くことを誓います。 一、われら男子青年部勇士全員は、学会の先駆であり、戸田会長の無二の親衛隊なることを自覚し、いかなる時代になろうとも、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、われらの使命をまっとうせんことを誓います。 右、謹んで宣誓いたします。 昭和二十八年十二月二十三日 男子青年部代表 第一部隊長 池田 大作 (当時、青年部教育参謀、男子第一部隊長) (「会長講演集第三巻」) 「さきほど辻君が、折伏の仏であるといわれたが、仏は末法には日蓮大聖人様以外にいない。これは訂正しておき。しからば、私は凡夫である」(戸田指導「すべての階層の指導者」) |
昭和29年(1954年) |
登山会の折に、所化小僧さんに御供養するが、あなた方のなかには、小僧さんが喜ぶからと思っている人があるが、 これは正月十五日、代々の御法主猊下が、所化小僧さんにごちそうをする。これは、広宣流布のときに、再び御出現の日目上人様が、もしや、このなかにおいで になるかも知れぬということから、お山の伝統の行事である。私も、登山の折には、その気持ちで御供養申しあげているのです。これが大事なことです。ものの見方がわかれば、ものごとはすべて成就する。(戸田聖城全集第4巻 東京・豊島公会堂) 「かれらが責められれば身延や中山にならって、三宝を立て、釈迦が仏、法が南無妙法蓮華経、僧は日蓮聖人などという。バカげた三宝です。仏と法はそろわなくてはならない」人法一箇について語る。 情報部を設置 池田氏が情報部最高顧問に就任 池田氏 この頃には大蔵商事から離れる 第1 1,411 (蒲田) 第2 1,000 (鶴見) 第3 650 (小岩) 第4 594 (足立) 第5 352 (杉並) 第6 361 (向島) 第7 286 (中野) 第8 272 (築地) 第9 221 (本郷) 弟10 191 (文京) 第11 141 (志木) 第12 139 (城東) 第13 435 (仙台) 第14 468 (大阪) 第15 50 (八女) 新編成の男女部隊に部隊旗授与 ありがたくも、本日は、御本山の猊下のお出ましをねがい、畑毛の猊下のお出ましをねがって、われらとしてはこれ以上の名誉はない。来年のきょうまでのあい だに、ほんとうに功徳をつかむ覚悟で、自分の悩みの心に、大御本尊様を目の前に浮かべ、両猊下を拝もうではありませんか。それでは、私が導師となります。 「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」 どうか、功徳を祈っていただきますように。(戸田聖城全集第4巻 東京・両国の国技館) 「彼等の迷論は実に相承に総別の二義即ち法体・法門相承の二義があるのを知らぬ事から生ずるのである」 |
昭和30年(1955年) |
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昭和31年(1956年) |
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昭和32年(1957年) |
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昭和33年(1958年) |
池田「大御本尊様を中心にして鉄の如く団結しよう」(年譜・池田大作) 手紙で触れた三月一日の「大講堂落慶大法要」― 静岡県知事を始め多くの来賓を招いての大事なセレモニーの場面でも、池田はどこかにいなくなっていた。戸田先生が「池田を探して来い! 」と命ぜられ、ジリジリしながら待っていると、池田はエレベータの所に現われた。それを見つけた戸田先生が、大声を張り上げ、「何故、大事な時に俺の側に いない! 俺とお前しかいないんだぞ。それなのに、お前はどうしていないんだっ! 」と、池田を怒鳴りつけた。 池田は、恐縮するでもなく、「いえ、私のような者はこんな晴れがましい場に出るより、外で案内係をしているほうが相応しいので… … 」と謙遜ぶった言い訳をしていたが、その表情は、叱り飛ばされた屈辱で見るからにムッとしていた。戸田先生は、池田をそのまま置いて、一人でエレベータに 乗って祝賀会に出席された。 戸田先生はそれまで、池田を公衆の面前で叱りっけることなどなかった。池田の態度がよほど腹に据え兼ねたのだろうと、我々はみな驚いたものだ。 |
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戸田先生が「敵は内部だ」と私にいわれたのは、まさにこの事件の後だ。 先生はこの日の式典でスピーチされ、「日蓮正宗の敵はすべて倒した。身延にもペンペン草を生やした。御書全集も編纂した。自分にはもう思い残すことは何も ない… … 仏法でいう『諸願満足』である」と、あたかも自分の死期を悟られたかのような趣旨の話をされた。 私はそれを聞いて、別の意味で驚いた。というのも、私は常に先頭に立って学会の敵と戦うことが自分の存在意義だと思ってきた男である。それなのに、学会の 敵がなくなってしまっては、生きがいがなくなってしまうではないか。そこで、宿坊に引き揚げ、横になっておられる先生の枕元に行き、「先生、これから先 は、学会は何を敵として戦えばいいんですか」と問うた。すると先生は、すっくと体を起こして、「いいことを聞いてくれた。敵は内部だ。敵は内部だ」と繰り 返しいわれた。 その時、私はこの言葉を漠然と、「より団結を固めよ」という意味に理解した。しかし、今にして思えば、昼間の会場での叱責と合わせ考えれば、「内部」の指 す意味はより具体的だったことがわかる。 池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めて きた、学会にとって最も害のある行動である。実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー( 北条浩、森田一哉、中西治雄、星野義男等) に自分を「先生」と呼ばせていたことを、私は後で知って愕然とした。あの時、戸田先生は内心? 学会の敵は、池田のような男だ」といいたかったのではないか。 (『池田創価学会を解散させよ』 龍年光著) 創価学会(池田氏ら)は大石寺の境内で、大石寺の所化頭である的場正順師に対するリンチ集団暴行事件を引き起こした。この事件は、日蓮正宗宗門に対する威 嚇・威圧のために池田氏が、側近の星野義雄登山部長らの青年部員と立案、実行したもので、大石寺内事部で修行している所化・小僧を統括する立場にある所化 頭の的場師を、大石寺境内を流れる潤井川の水に沈め、暴行を加えたというものである。 「追撃の手をゆるめるな」の捏造 「戸田先生は、(宗門攻撃の)追撃の手をゆるめるな、といわれた」と。 これは池田の完全な「捏造」である。なぜなら、戸田先生はたとえどのような理由があるにせよ、日蓮正宗の僧侶に対するこのような暴力行為を認めるはずがな いからだ。 戸田先生は終生、日蓮正宗の僧侶を心から尊敬され、学会に対して、それを身をもって示されてきた。特に、修行中の所化・小僧さんに対しては、親のように可 愛がってこられた。戸田先生は毎年、正月に登山された折、ご自分の宿坊(理境坊)に所化・小僧さんの全員を招待して、衣を差し上げるという儀式を行なって いた。彼らを御本尊様の前の上座に並ばせ、自らは下座に坐り、恭しく一人一人に新調の衣を差し上げるのだ。この衣は、それぞれの寸法に合わせて、予め東京 で作らせたものだった。 そして、ご馳走をし、お土産を持たせて大坊へお帰しする。先生はその理由を、私たちにこう教えた。「この中から、必ず将来の猊下がおでましになるのだ」 と。その先生が、若い所化たちが親代わりと慕う所化頭に対する暴行に対して、「追撃せよ」などとおっしゃるはずがない。(『池田創価学会を解散させよ』 龍年光著) ※「追撃の手をゆるめるな」とは、的場師リンチ事件直後、理境坊で安静していた戸田会長のもとへ池田氏一人がこの事件を報告し、遺訓としていただいた言葉であると学会内に流布している指導である。つまり誰も証人は存在していない。 この儀式(※3・16)の後、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事だちと、池田・北条・森田・龍の 四参謀が揃って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際はっきり池田を三代会長に指名しても らおうというハラづもりだったようだ。辻は「大久保彦左衛門」と渾名され、どんな場面でも物怖じせずにズバッと物をいう男だった。この時も、病の先生の枕 辺で、当然のような顔をして、「先生、三代会長は誰にするんですか」と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で、「それは、お前たちが決める んだ」と答えられた。当然、「池田」という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう一度同じことを聞いたが、返事は同じであった。 学会幹部は誰も立ち会っていなかった。 死後駆けつけた池田は後に、「戸田先生の死ぬときは大変だった」と語っているが、「死ぬとき」とは死の瞬間の時ではない。 戸田氏は、死を前にし、近親者に「今度の病気はいままでと違う。これも、僧侶をいじめた罰かもしれない。」と語っている。 戸田先生は、本山で最後を迎えるつもりでおられたが、一切の行事が終了したので小泉理事長がお願いして、三月三十一日下山し、日大病院へ入院して頂くこ とになった。理境坊へ駆けつけてこられた奥様に、「あなたたちは何ですか、戸田がこんな状態になるまで、こんな寒い所に置いておくなんて!」と、涙声で叱 られたのを私は覚えている。 戸田先生は、四月二日奥様にみとられながら息を引き取られた。 先生は常々、奥様に、「俺は全国を飛び回っているが、死ぬときはお前の手を握って死ぬよ」と、いっておられたと聞いていたが、まさにその通りの最期となった。 そのとき、病室には学会幹部は誰もいなかった。全員学会本部に詰めていた。 臨終のときが迫っていることをわかっておられた戸田先生は、学会に対する遺言はすべて本山で済ませて、いまは一人の人間として家族に看とられながら静かに霊山に旅立たれたのである。(『有徳王』龍年光) 「先生の御遺言は特にありませんが、先生といたしましての遺言はただただ、先生がここに、立派なわれわれの生きるべき道を示して下さったことです。あとは『先生に続いて行け』というしかないと思うんであります」(聖教新聞昭和三十三年四月三日付) 「(龍年光が)『先生、身延も既に敵でなくなった。ジャーナリストも敵ではない。一体、学会の敵は何ものでしょうか』とおうかがいしましたところ、先生は体を起されてはっきりと『それは内部だよ』とおっしやいました」(『聖教新聞』33年4月18日) 会員25万人が参列、岸首相、安井都知事らが出席) 4千万円の香典を池田氏が没収、四十九日後、戸田家へ一部を返却 理事長・小泉隆は、会長職は当分置かない、戸田がつくったレールの上を、脱線しないように創価学会という列車を走らせていくのが我々のつとめだ、と演説。(『池田大作権力者の構造』溝口敦) 青年部参謀室長を兼務 会長ポストを巡る池田氏の策略はじまる 「私は日蓮正宗の信者であって、創価学会の信者ではないと思っている」 「創価学会に君らに信心してもらうものなんか何もないよ」 |