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【序】池田大作は当初、創価学会をどう考えていたのか・・・




1)そもそも創価学会とは何なのか 〜何が目的で設立されたのか〜

↑設立当時の創価学会。左から牧口初代会長、掘米尊能師(後の日淳上人)、戸田理事長(昭和7年頃)

 第2代会長戸田城聖氏は、
「日蓮大聖人様から六百余年、法灯連綿と正しくつづいた宗教が日蓮正宗である(中略)この仏法こそ、私たちを真に幸福にみちびいてくれる宗教であることを、私たちは日夜身をもって体験しているのである」
(戸田城聖全集3-111頁)
 「私たちは無知な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば、車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内していくのが、学会の唯一の使命である。宝の山にはいって宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが、われわれの学会の尊い使命なのである」(同113頁)
 「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない(中略)今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画をたてたいと思っている」(戸田城聖全集3-490頁)
といっています。
 このように、創価学会が日蓮大聖人の仏法を正しく信仰する日蓮正宗の信徒団体として出発し、御法主上人の御指南に随順して信行に励んできたことは明らかです。


 ↑創価学会の更に詳しい歴史を知りたい方はこちらへ



2)創価学会は、日蓮正宗・法華講の一部であった(戸田会長指導:音声参照)

 創価学会というのは日蓮正宗の中の一部の会でありまして、日蓮正宗にはご承知のように法華講とか何々講とかあるうちの一つ、その内の創価学会であります。ただ古いご信者と違うところはですね、古い信者がたは「いつか広宣流布ができるだろう」と、こう思ってるのと、創価学会は「広宣流布をする」って言う、ちょっとそこが違うんですね。
それだけの相違なんですよ。古い信者は「いつかできるだろう」と呑気にしてますけれど、我々はすぐやらなきゃならんと思うから忙しいだけです。ですから、広宣流布という事は私らの使命だと思うてるのですが。


3)創価学会の当初の目的=戸田先生の実際の声を聴いてみましょう

 戸田会長の実際の声を聴いてみて下さい。戸田会長はどんな目的で創価学会を再建したのか、御法主上人猊下、宗門に対してどのような考えを持っていたのか、そして命懸けで目指した広宣流布とは何だったのか、その本義・本心を知る事ができます。また、宗門から見た戸田会長の信心を知る事ができます。


4)戸田会長と池田会長の違い 〜実は師弟関係ではなかった!〜



 

 

  ●戸田城聖と池田大作の関係
 1947年、戸田城聖と池田大作は出会いました。池田の著書『人間革命』や総会での池田の証言によれば、両者は信頼し合う師弟関係(師弟不二)だったと書いていますが全くのでたらめです。池田自ら「戸田先生は石田(次男)がお気に入りだ。石田には次々と地位を与えるが、私はいつも尻拭いだ。」と発言しています。戸田会長の死去後、池田は最初に戸田の遺産や香典、美術品をすべて自分のものにし〝香典泥棒〟を自らの手で行ったのです。戸田会長は命がけで日蓮大聖人の仏法を広宣流布すべく、御法主上人猊下を〝時の大聖人様〟として崇め南無しておりました。しかし池田大作は、自らの名誉を世界に示すことと「天下取り」が目的であり、戸田会長と正反対の路線を歩んだのです。  
 ●日蓮正宗で行われた戸田幾さんの葬儀
 平成1236日、創価学会二代会長・戸田城聖氏の夫人・戸田幾(いく)さんが逝去されました。享年89歳。お通夜ならびに告別式は、312日、13日と、東京都品川区の桐ケ谷斎場において、日蓮正宗常在寺住職・細井珪道尊師の導師で厳粛に執り行なわれました。 戒名は「照寿院妙護日操大姉」、御法主日顕上人猊下より賜わった日号であります。 戸田城聖の長男・喬久氏は常日頃から 「戸田家は日蓮正宗の信徒である。日蓮正宗で葬儀を行なうのは当然だ」 と語っており、さらに 「親父(城聖氏)が猊下にお目通りする時は伏せ拝のまま、一度も顔を上げることはなかった。そ姿を見ているから、猊下様はこんなに尊い方なんだと思っていたそんな親父を見て育っているから、いかなることがあっても、お山(大石寺)に弓を引くような真似はできない」 と話していました。 すなわち、城聖氏の信心を引き継いだ戸田家は、常在寺に所属する日蓮正宗の信徒との自覚を鮮明に持ち、昭和33年四月の戸田会長の葬儀も、常在寺に願い出て執行。それ以来、42日の祥月命日には、毎年、東京・目黒の戸田家へ同寺の御僧侶が訪問、追善供養の読経・唱題が行なわれてきたのです。


 -----------------<池田大作が3代会長になってから創価学会が変貌します>------------------



5)創価学会の変貌【池田本仏論の発生】〜本来の目的を失う〜


 第3代会長の池田大作もかつて、初代・二代会長の言葉を受けて「わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます」(昭和35年5月3日会長就任挨拶 大白蓮華 昭和35年6月号7頁) と述べていた。 ところが・・・・。
■■■池田大作本仏論の発生■■■
【証拠-1】
「私から幹部の任命を受けることは、記別(きべつ=仏が弟子達の未来の成仏を約束する)を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益である」(『前進』昭和42年2月号)
【証拠-2】
「私は何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。……私は言ってあげて、罪業を切ってあげているのだ」(『前進』昭和41年1月号)
【証拠-3】
「皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていてはだめだ」(『前進』昭和44年10月号)
【証拠-4】
「私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何もならない」(『前進』昭和45年5月号)
【証拠-5】
「私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない」(『前進』昭和40年6月号・池田指導)
【証拠-6】
 昭和52年に起きた有名な話だが、池田大作が千葉の清澄寺(大聖人が幼少の頃に修学された寺)を訪れた際、そこに生える千年杉に向かい、木肌を撫(な)でながら、「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と呟(つぶや)いてみせた件(※実は、この千年杉の樹齢はまだ約250年だった)や、あるいは、小松原法難に縁の深い華房の地へ行った際には、傷洗いの井戸を見ながら、「あの時(小松原法難の時)は、たしか14人だったかな」と発言した件など、ともかく池田が自分を日蓮大聖人の再誕に見せようとした言動は、数多く目撃されていて枚挙に暇がない。(S52『慧妙』H13.11.1)
【証拠-7】
「最近わかったのですけれども、すでに昭和38、9年ごろから『会長が仏だ』という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった」(第六十六世日達上人 昭和54年3月31日)

■■■末法勝劣論(池田先生=勝・日蓮大聖人=劣)の発生■■■
【証拠-1】
「大聖人の場合は人数も少なかった、時代も違う。弟子も少なかった。信者も少ない。そういう意味からいえば楽である。我々の場合には時代は激動である。そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。大変なことである。しかし一代で終らない。大聖人の場合には一代で一応終えられた。」 (池田会長 昭和52年1月16日・第4回伸一会総会)
【証拠-2】
「大聖人は700年前ご出現なされた。しかし、全然広まらなかった。創価学会(私=池田)が正しいんです。」 (池田会長 昭和52年1月26日・第2回「インタナショナルの日」)
【証拠-3】
「凡夫(民衆)こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。凡夫(民衆)が「本仏」、仏(大聖人)はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。 “仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏(大聖人)は実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない。まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。本因妙の教主(大聖人)は、地涌の菩薩のリーダー・九界の代表に過ぎない。(平成11年 法華経の智慧:池田大作著)

■■■池田王国論(池田大作天下取り構想)の露見■■■
【証拠-1】
「私が教わったのは帝王学だ。 私は最高権力者になる。そのときには 創価学会を解散してもいい 」 (『現代』 昭和45年7月号)
【証拠-2】
「学会っ子は名前もいらない、金もいらない、身体もいらない。奴隷のように学会につかえよ、それが御本尊様につかえる事だ」(昭和46年7月8日 社長会)
【証拠-3】
「口八丁。手八丁でよ、なんでもうまくやるんだ。社会(党)だって方便を使っている。共産(党)だって 目的のためなら皆な謀略じゃないか 。一般社会だって利益のためならあらゆる手段を使う。うちは信心を守るため、学会を守るためだ」 ( 昭和51年6月1日 扶養研修所)
【証拠-4】
「天下を取れることが少し私には見えて来た 。天下を取らない党なら、やる必要はない。私がひかえているから心配するな」 「今まで 創価学会を いじめた者を今からやる 。」 (昭和51年 11月16日)
【証拠-5】
「創価学会は俺そのものだ 。私が創価学会の魂だ。お前たちは、 私の全財産をただ預かっているに過ぎないのだから、 『一時お預かりいたします』という一札を書くべきだ 。また、私を“永遠の師”と仰いでいく、ということも、誓約したらどうか」 ( 昭和54年5月 側近幹部に)
【証拠-6】
「全員が勝つと強く決めていけ!勝つか負けるか。 やられたらやり返せ 。 世間などなんだ! なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったりしてはいけない。 怒鳴っていけばいいんだ!(中略) 反逆者には「この野郎、馬鹿野郎」でいいんだ! 」 ( 平成元年3月12日 埼玉指導)

......その他


6)創価学会〝離反の真相〟〜なぜ創価学会は宗門から破門されたのか〜

 

 日蓮正宗総本山・第66世日達上人猊下
 日達上人猊下御言葉(動画・離反の真相:6参照)
 先月の中頃(※昭和49年5月9日?)でしたか、北條副会長ならびに山崎弁護士が来られました時に、私は申し上げました。その時、国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう1つ上に日蓮正宗国際センターというものを造る、という趣旨で来られました。私ははっきり断りました。
(学会が)会計を、大石寺の会計を調べるという。大石寺も宗教法人で、その年その年に税務署へちゃんと会計報告してとおっておる。それにも拘わらず、また第三者が来て会計報告まで調べるというのは、どうも私には意味がとれない。その時に北條(浩=後に4代会長)さんが言うには「もし調べさせなければ手を分かつ、おさらばする」とはっきり言ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ自分らは正宗から手を切るというのである。(第六十六世日達上人 昭和49727日指導会の砌)  

 

日達上人様は、昭和52年頃、池田創価学会の「根性はダメ」であることを明確に仰せで、その謗法路線を非常に憤慨しておられました。





7)破門後の創価学会(その1) 大御本尊、三宝、三大秘法を捨て去る〝謗法勤行〟 



8)破門後の創価学会(その2)  〜ニセ本尊販売→拝んでの自殺者急増!〜


 
 創価学会発行のニセ本尊を拝むと「うつ病・統合失調症・引きこもり・家庭崩壊・自殺」などの現証が多く出ています。 また、本人だけではなく、家族にも同じ現証が出ています。 このニセ本尊の恐ろしい魔の通力は、家族、子孫まで不幸にします。 創価学会発行のニセ本尊には、仏法に敵対する魔の力があり、これを拝むと恐ろしい魔の通力によって現罰を受け、その謗法の罪に よって永く地獄に堕ちる結果となります。


9)破門後の創価学会(その3)  〜日蓮大聖人様の出世の本懐を捨てる〜


【宮田教授(創価学会教学アドバイザー)語録抜粋】
 特に、音声の〝21:03以降〟をよく何度も再生してじっくりとお聞きください。
「宮田先生にお聞きしたいのですけれども、日蓮本仏論に代わるもの(別の本仏論)を用意しているとおっしゃっていましたが、もしさしつかえなければ教えていただきたいのですか。」と始まり
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戸田先生の教え







   

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