---SKD創価学会・顕正会脱会ネットワーク---   

 

池田本仏路線からニセ本尊→今度は釈尊本仏化路線へ  〜学会は本尊にまどへり〜


1.池田本仏化 〜序章〜

    昭和52年に起きた有名な話ですが、池田大作が千葉の清澄寺(大聖人が幼少の頃に修学された寺)を訪れた際、そこに生える千年杉に向かい、木肌を撫(な)でながら、
 「久しぶりだね。700年ぶりだねぇ」と呟(つぶや)いてみせた件(※実は、この千年杉の樹齢はまだ約250年だった)や、
 あるいは、小松原法難に縁の深い華房の地へ行った際には、傷洗いの井戸を見ながら、
 「あの時(小松原法難の時)は、たしか14人だったかな」
 と発言した件など、ともかく池田が自分を日蓮大聖人の再誕に見せようとした言動は、数多く目撃されていて枚挙に暇(いとま)がありません。(S52『慧妙』H13.11.1)

「最近わかったのですけれども、すでに昭和38、9年ごろから『会長が仏だ』という話は出ておるんです。それを我々は知らなかった」(第六十六世日達上人 昭和54年3月31日)

「まさしく、現代における人への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる」(『ひのくに』昭和50年第10号)

「世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。(中略)私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。(中略)身命を惜しまず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ、親徳具備でいらっしゃる」(『大白蓮華』昭和41年2月号)

「私から幹部の任命を受けることは、記別(きべつ=仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けることです。これなくしては法華経を持つといえども無益である」(『前進』昭和42年2月号)

「私は何も言わなくてもみな見えているよ。とても敏感なんだ。……私は言ってあげて、罪業を切ってあげているのだ」(『前進』昭和41年1月号)

「皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目をあげてほしい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていてはだめだ」(『前進』昭和44年10月号)

「私には全部わかっている。又、本部から、いつも会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何もならない」(『前進』昭和45年5月号)

「私を離れて、いくら戦ってもダメだ。私と境智冥合していなければ、異体同心とはいえない」(『前進』昭和40年6月号・池田指導)」


2.池田本仏化 〜本格化路線〜

 法華経の智慧 ~二十一世紀の宗教を語る 第五巻
 (池田大作著/聖教新聞社 1999.9/20 刊)

【池田名誉会長発言】  「思想」と言っても、すべて「人」で決まる。
 日蓮大聖人の仏法といえども、「人」が師弟の心を忘れれば、「人間のため」どころか、「人間抑圧のため」に使われてしまう。それは皆がよく知っている通りだ。ともあれ、大聖人の御言葉が、全宗教史上、画期的な宣言であることは、いくら強調してもしきれない。仰ぎ見る対象であった「仏」が「迹」にすぎないというのだから ――。では、なぜ、そう言えるのか ――。じつは、ここに神力品の“急所”もある。釈尊から「地涌の菩薩」への「付嘱」とは、「凡夫こそが本仏」という意義を含んだ儀式なのです。

   ◆◆◆◆◆破 折 ◆◆◆◆◆◆◆

   創価学会員は「大聖人直結」を自己正当化の口実にしています。
しかし、実際には「池田直結」であり、しかも末端会員は池田に直で会えないのですから、「畜リーダー直結」程度ではないでしょうか?  池田氏の、「主師親の三徳を与えているのは凡夫( 民衆) である」「凡夫・凡俗こそ本仏であり、聖者・仏は迹仏にすぎない」とした【俗本仏迹論】ともいうべき謬見を解説し、御書すらも、三毒充満の荒凡夫が、覚者である仏に主・師・親の三徳を被らせている、という解釈ですから、〝驚天動地〟ならぬ、まさに「天地顚倒の妄言」です。
 さて、池田は〝凡夫こそ本仏なり〟を証明するために、
「返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。」の御文を悪用しています。
 前後の御文全てを読めば、

  『されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ。経に云はく「如来秘密神通之力」是なり。如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備へ給ふと思ひしにさにては候はず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。其の故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と判じ給へり。此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依って、倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。』(御書665 諸法実相抄)

 これは、まさに秘妙方便であります。まず、天台大師の法華文句の釈「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり」と、如来(仏)の差別・勝劣を示された上で、次に、「此の釈に本仏と云ふは凡夫なり」と、本仏とは凡夫=示同凡夫・日蓮大聖人であることを示され、「迹仏と云ふは仏なり」と、仏(釈迦)は迹仏であると、仰せなのです。まさに、「倶体倶用の三身」とは久遠元初自受用身・日蓮大聖人様のことです。  それを、「民衆(荒凡夫)が被らせた」と読む心は、まさに狂気の沙汰です。


3.池田本仏化の失敗

 宮田狂授より日蓮本仏論に代わる新本仏について語っている。


 特に、音声の〝21:03以降〟をよく何度も再生してじっくりとお聞きください。
質問者が
「宮田先生にお聞きしたいのですけれども、日蓮本仏論に代わるもの(別の本仏論)を用意しているとおっしゃっていましたが、もしさしつかえなければ教えていただきたいのですか。」
と始まります。

21:09
「基本的には、日蓮正宗は日蓮に真があったんだという前提で、いくつかの怪しげな御書を引用して頑張ってるわけですけど、(創価学会は)基本的にそれはもうやめようと、日蓮大聖人本人が日蓮本仏論をもっていたという立場はもうとらない。しかし、我々(創価学会)が信仰のモデルというか、どういうことをやるのかというお手本として、日蓮本仏論というのを作り直すことができる。僕というか(創価学会は)…(抜粋)…大聖人の考え方とそれ以降の怪しげな御書を論拠にして議論を分けた考え方は分けたほうがいい。日蓮仏法が全て大聖人の考え通りでなきゃいけないという立場で考えなきゃいけないのか。歴史の議論の成果を使っていいだろう。大聖人は自分が本仏だとは言ってない。だから、手本として信仰・尊称していく。」

25:35
「『本門の教主釈尊を本尊とすべし』と曼荼羅の中に釈尊と書いてあるので、書いてある通り、それを本尊とする」

36:54
「日蓮上人自身の信仰は御釈迦様を奉っておられたと(中略)、後世で日蓮本仏論ができた。日蓮上人自身の遺文に即してやらないと。。。」

↑これらは、2.の、「秘妙方便」の部分で破折済なので敢えてふれませんが、なぜ「池田先生」や「凡夫」を本仏として持ち出さず、わざわざ釈尊を本仏に持ってゆこうとするのか。

■推測−1)
創価学会が、日蓮宗(大石寺以外の日興上人門流)から日蓮大聖人御真筆の御本尊を購入すれば、日興上人までの付属と、釈迦本仏論の両方が成り立ち、新たな総本山が手に入る。よって、日目上人以降は僧宝として認められない(勤行から外す)という戦法。
■推測-2)
その方が、世間的にも認知されやすく、会員の増加を図れる。
■推測−3)
既に植物人間になって、〝行きた屍〟池田大作を本仏にしても、それは学会内だけの神話で終わり、世間的に会員の取り込みに不利だから。