1)そもそも顕正会とは何なのか 〜何が目的で設立されたのか〜

 第二次世界大戦下の1942年(昭和17年)、日蓮正宗妙光寺(東京都品川区)の総代だった浅井甚兵衞が初代講頭となり、妙光寺所属の法華講の一講中として東京妙信講を結成。当時は戦時下のため折伏弘通は困難を極めましたが、甚兵衞は事業経営のかたわら布教しましした。 
 浅井親子らは妙光寺から豊島教会(現・妙国寺。板橋区)へと所属変えを行いました。  
 その後、法道会(現・法道院。東京都豊島区池袋)へと所属を変えましたが、住職の申入れを受け、法道会法華講(現在の法道院)と合併するため発展的に解散したのです。その後に法道会から離脱し、妙信講を発足しましたが、やがて創価学会が中心となって寄進・建立した正本堂の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗・創価学会と激しく対立するようになりました。

2)なぜ顕正会は解散処分を受けたのか


   ↑大日蓮昭和50年1月号3頁
解散処分の理由は以下の通りです。
院第2412号
昭和49年8月12日   宗 内 一 般
  日蓮正宗 宗 務 院 [印]
一、日蓮正宗法華講支部妙信講解散処分の件
今般、法華講支部妙信講は、日蓮正宗責任役員会並びに参議会の議決を経て、別記宣告書の通り、解散処分に付せられましたから御承知下さい。 右、通達いたします。
(別記)
宣 告 書  東京都板橋区常盤台1丁目16番地6号
 日蓮正宗法華講支部  妙 信 講
  講頭 浅 井 甚 兵 衛
一、主文 講中解散に処する。

 右妙信講は、数年来「国立戒壇の名称を使用しない」旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和47年4月28日付「訓諭」に対して異義を唱え、数度に及ぶ宗務院の説得、誡告等にも従わず、かえって宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷を加え、機関誌の大量配布、デモ行進などを行った。
これは、宗門の秩序と統制を乱す行為であり、甚だ許し難いものである。
 従って、7月31日付をもって弁疏の提出を求めたところ、8月7日文書の提出があり、その内容を検討したが、右行為を正当とする事由は見当らず、また情状酌量の余地も全くないものである。
 よって宗規第164条(旧第161条の3)の2号の処分事由に該当するものと認め、頭書の如く処分する。
 昭和49年8月12日
  日蓮正宗管長 細 井 日 達 [印]
 昭和49年8月12日
 日蓮正宗管長 細井日達

 元妙信講講員の皆様へ
 今回私は所定の手続きを経て本日付をもって妙信講の解散処分を行いました。
昭和45年5月3日、日大講堂において私は大聖人の仏法が日本国のみにとどまらず、全世界の民衆を救済すべき大仏法であるたて前から「今後国立戒壇の名称は一切使用しない」旨を公式に言明いたしました。
 然るに妙信講は、この公式決定に従わず、更に昭和47年4月28日付の正本堂に関する「訓諭」に異議を申し立て、遂には「流血の惨云云」の言辞をなすに至ったので、このような激越な行動を思い止まらせるために、私は種々努力いたし、時には厳しく誡めもし、或は大きく包容する意味での配慮もいたしました。
しかし妙信講は、その後も今日に至るまで、再三再四にわたる説得や誡告にも従わず、宗務院や同信の徒をかえって非難中傷し、その上遂に宗務院の制止を無視して大衆行動まで起すに至りました。
 私としては、今迄の努力が全く報いられなかったことを甚だ残念に思い、かつ非常に悲しいことではありますが、一宗の統率者として宗門の秩序を守り、統制を保っていくためには、万やむを得ないこととして、遂に今回の措置をとらざるを得なくなったのであります。
一部の誤った指導者によって講員全体が誤った方向へむかわされることは、まことに忍びないことであり、この上からも今回の処置はやむを得ないこととして御了承いただきたいと思います。たとえ如何なる理由があるにせよ、万が一にも無用の騒ぎを起して、宗内を更に乱すようなことがあっては、仏法に違背することとなり、私を益々苦しめる結果となることをよくお考えいただきたいのであります。
 どうか元講員の皆様には、この事態を冷静に受けとめられ、私の心情を御理解せられ、そして私の指示に従われるよう願います。
皆様は、今日以後その所属寺院を別記4ヵ寺のうち、いずれかに定めて、今日より60日以内にその寺へ申し出られるよう願います。その寺においては、他の法華講員と何ら変らぬ平等の気持ちをもって遇しますので、その指導教師の指導のもとに、宗門の方針に沿った正しい信心に励んでいただきたいと心から念願いたします。


3) 顕正会専用の寺院「顕正寺」を建設するも破綻

 宗教法人格を所有していなかった顕正会は、顕正寺の信徒団体という位置づけを行っており、宗教法人格取得以前の顕正会本部職員は、「宗教法人顕正寺顕正新聞社」の団体職員となっていました。
 しかし、「宗教法人顕正寺顕正新聞社」の代表役員は顕正会会長・浅井昭衛であり、表立って在家教団志向を出せなかった時代のカモフラージュに過ぎなかったのです。
 1978年3月建立-2003年5月破却。  かつての顕正会では、顕正寺を「御遺命守護の戦いの象徴」としてきました。
 1996年に宗教法人顕正寺顕正新聞社は宗教法人顕正会へと移行し、以後、顕正寺は名実共に顕正会の一付属施設となりました。2003年、顕正会本部の方針転換にもとづき、顕正寺は廃止されたのです。
 1978年3月建立-2003年5月破却。
 かつての顕正会では、顕正寺を「御遺命守護の戦いの象徴」としてきました。
 1996年に宗教法人顕正寺顕正新聞社は宗教法人顕正会へと移行し、以後、顕正寺は名実共に顕正会の一付属施設となりました。2003年、顕正会本部の方針転換にもとづき、顕正寺は廃止されたのです。
 以下に、建立に至る経緯から破却までの詳細を時系列に即して述べてみます。
【松本日仁】
 顕正寺「開基」とされる松本日仁(まつもとにちじん)は、日蓮正宗妙縁寺の住職として、また、権僧正(ごんそうじょう)の位にある高僧でしたが、正本堂の定義をめぐる論争で国立戒壇論堅持を主張する浅井甚兵衛・浅井昭衛父子らに徹夜で軟禁されて、浅井親子の説得に応じる形となりました。
 当時の様子について浅井昭衛は、総本山から戻った松本から電話があり、妙縁寺を訪ねたと主張していますが、その時刻を夕方と言ってみたり、深夜と言ってみたり、一貫性を見ず、徹夜で松本住職を軟禁したことは事実のようです。その結果、1974年12月25日に擯斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放すること)となっりました。
 松本は、妙信講の後押しを受けて擯斥処分を不服とする訴訟を起こしましたが、その訴訟の最中である1977年に至って、老衰で緊急入院し危篤状態となりました(当時86歳)。妙信講顧問弁護士が委任権限を行使して「松本が妙縁寺に遺してきた銀行預金1億2500万円を、日蓮正宗側は、松本に引き渡すべく所定の口座に振り込む」との和解条件を受け入れ、この訴訟は取り下げられました。妙信講顧問弁護士が指定してきた口座は「顕正寺建立準備資金」名義の銀行口座であり、松本の死後、この1億2500万円が、顕正寺建設の資金等として使用されました。松本の遺族らは抗議しましたが、すでに後の祭りでした(元創価学会顧問弁護士・山崎正友が『慧妙』紙に連載した手記による)。
 なお、浅井昭衛は後年、「松本が臨終間際に新聞紙に包んで金子を自分に手渡した」と発言しています(顕正新聞 平成十一年四月二十五日号)が、これは、銀行振込によって宗門から妙信講の手に渡ったという1億2500万円とは別の話で、数百万円だといい、当時赤字であった顕正新聞社の赤字補填に使用されたとのことです(下山正行こと下山正恕こと藤田実=本名・上原成宏、故人であるが顕正会壮年部員であるにもかかわらず日蓮正宗信徒と詐称して『冨士大石寺顕正会』なる礼賛本を執筆するなど、顕正会を擁護した人物の証言)。

【八木直道】
 松本と同じく妙信講と行動を共にした八木直道(やぎじきどう)元・要行寺住職(静岡県富士宮市)も、日蓮宗富士派時代の1910年に出家得度した宗内最古参の僧侶の一人ででしたが、1974年10月15日に擯斥処分となりました。もっとも彼の場合は、創価学会のありかたに対する憂慮から正本堂に対し疑問の声をあげたのであって、必ずしも国立戒壇論そのものには固執していなかったのです。顕正寺の落成後、彼は妙信講を頼り、顕正寺住職に就任しました。
 しかし、浅井昭衛にとってみれば、寺院住職を自らの指導教師として仰ぐなどという心情は全く無かったのです。
 結局、八木は間もなく顕正寺を退出し、1985年には、自らの非を日蓮正宗法主(日顕上人)に謝罪したことが認められ、日蓮正宗に復帰しています。
 その後、養子であった八木日照御尊能化(元・大石寺主任理事、現・日蓮正宗総監)が住職をしていた大石寺妙泉坊で隠居、1995年9月、98歳で逝去しました。

【村松禎道】
 八木が退出した後1980年の顕正寺に浅井昭衛の要請で入職。彼は、日蓮正宗で所化(しょけ=修行中で住職になる資格はない)の修行を退転して北海道の実家に戻っていましたが、住職代行に就任しました。さらに1984年には、住職の称号も浅井昭衛によって与えられました。
 村松は当初、浅井昭衛の紹介で見合い結婚し、顕正会の法要でたびたび導師を務め、また唯一の葬儀・法要執行要員として全国を飛び回るなど、会になくてはならない存在となったかに見えました。
 しかし元々が僧侶を見下している浅井の考えがあり、年々、過激な僧侶不要論へと傾くにつれて影が薄くなっていき、葬儀・法要の執行は、徐々に在家幹部に取って代わられていきました。そして、冨士大石寺顕正会典礼院が建設された後も村松は顕正会本部職員の肩書きを有していましたが、平成17年11月末日を以て、突然解雇されました。その後の動向は不明でのままです(顕正寺御供養の約束履行されず)。
 浅井昭衛は従来より、「御遺命守護完結のその日には、顕正寺を時の日蓮正宗の法主に御供養申し上げる」と公言していました。1998年、浅井は、日蓮正宗総本山大石寺における正本堂から奉安殿への本門戒壇大御本尊遷座に衝撃を受け、顕正会内部で「御遺命守護完結奉告式」を開きましたが、顕正寺御供養の約束は実行しませんでした。 これは「日蓮正宗現管長、阿部日顕管長が、今まで犯した罪に対して一分の改悔もなく、未だに国立戒壇を怨嫉の心を持ち続けているゆえ」となっています。  

●顕正寺の消滅
 2002年、浅井は「顕正寺を改築する」と発表、翌2003年、改築の成った建物を「冨士大石寺顕正会典礼院」との名称で発表し、それは納骨堂と葬儀場の施設で、管理は顕正会の在家幹部が行うことも明らかにしました。しかし、「顕正寺」の時代から、住職が常駐するようにはなっておらず、僧侶が住むはずの庫裏には在家幹部が宿泊・滞在して管理を行ってきたのであり、このことに特別な意味はないのです。
 そもそも顕正寺自体が安普請であり、竣工直後に地盤沈下によって本堂が傾いた為に慌てて修復工事を行った結果、須弥壇の高さを縮小せざるを得なくなり、小幅の板曼荼羅すらもその3分の1程度が欄間に隠れてしまうといった有様であったので、この改築は後手であったと言わざるを得ません。また、村松は常に浅井の講義で勉強をしており、僧侶が教える側、在家が学ぶ側、という日蓮正宗のあり方とは異なる路線をとってきたのであるから、村松を追放したのも時のしからしむるところといえましょう。

●顕正寺の寄付計画(自動)消滅
 そもそも「宗教法人顕正寺」の寺院規則には「この寺院は御遺命守護完結のその時に宗門に寄付する」(趣旨)と言う条項がありました。しかしこの条項は、『宗教法人顕正寺』から『宗教法人顕正会』への「名称変更」に伴い消滅しました。その後顕正会が「御遺命守護完結奉告式」が挙行されるにおよび、内外から「顕正寺の寄付計画」を何時実行するのかという物議を醸した。しかし顕正寺の消滅に伴い、実質的にこの計画も消滅しました。
   


4)顕正会の言う「国立戒壇」とは何か 〜元は国柱会・田中智学の「新造語」〜

 「国立戒壇」という言葉は、広宣流布の暁に建立される「本門寺の戒壇」について、明治期以降、「国立戒壇」という名称で表現されていた。
 これについいて、第66世日達上人は、この名称について、次のように訓諭を発せられた。
 「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて《国立戒壇》という名称を使っていた。しかし、大聖人は、世界の人々を救済するために”一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ可し”と仰せられている。このことからすれば、《国立戒壇》という名称は、本来不適当であった。明治時代には、《国立戒壇》という名称が一般の人に理解しやすかったので、本宗でも使用したが、もとより、明治時代以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬ様、今後は《国立戒壇》という名称を使用しない事にする」この訓諭に対して顕正会は、
「広宣流布の暁の戒壇は、日本国家が建立する『国立戒壇』である。近代の御先師上人方も、皆、『国立戒壇』と云ってきたのに、細井管長(日達上人)ら大石寺は、違憲を恐れて『国立ではない』などと言い出した池田(当時創価学会3代会長)に諂ってこれを捨て去ってしまった。これは仏法を曲げる行為である」等と主張している。また、
  「戒壇建立の必要手続きについては、『勅宣並びに御教書を申し下して』と定められている。『勅宣』とは国主たる天皇の詔勅、『御教書』とは当時は幕府の令書、今日においては国会の議決がこれに当る。正しく『勅宣並びに御教書』とは、正法護持の『国家意思の表明』ということである。(中略)この手続きの故に、御遺命の『本門戒壇』を、日蓮正宗では『国立戒壇』と称して来たのである。(中略)国家的建立の戒壇即ち『国立戒壇』云々」
 とも主張している。これは要するに、「広布の暁には、天皇の詔勅(勅宣)・国会の決議(御教書)という形で正法護持の国家意思が表明され、国費を以って国家的に戒壇が建立される。故に、《国立戒壇》である」

と、勝手な主張をしている。
   しかし、これは「国立戒壇」という名称に固執するあまりに犯した間違い(謗法)である。
 そもそも、「国立戒壇」という名称は、「天皇陛下を中心とする神の国」という、神道を根本とする「日本国体思想」が叫ばれた明治時代において、本宗の本門寺戒壇思想の影響を受けた、国柱会(身延系の新興宗教)・田中智学氏が、明治35年に記した著書『本化妙宗式目』の中で初めて使用した「新造語」である。この名称は、時流に乗って大いに使用されるようになった。
 大正時代になって、「その《国立戒壇》に如何なる本尊を安置すべきか」が議論される様になり、他門との法論の中で、受けて立った本宗側も、「その《国立戒壇》に安置すべきは大石寺の戒壇大御本尊以外にない」として、以降自然に《国立戒壇》という名称を使い始めたのである。
これは、大聖人様が「太田左衛門尉御返事」において、
「指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は四悉壇を心に掛けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか」 と仰せられた、弘教のために用いられた「世間普通の義」であると拝するものである。
 しかし、時代が変遷し、太平洋戦争敗北と国体思想の消滅、また、高度経済成長期の到来で民主主義が定着した近代日本においては、「国立戒壇」という名称は、時流に逆行した、「成仏の理」にそぐわないものとなったため、「国立戒壇」の名称を使用しないことに決定されたのである。
 こうした経緯も弁えず、近代の上人方が「国立戒壇」と仰せだからといって、「今の大石寺は《国立戒壇》を捨てて仏法を曲げた」などと暴言を吐いたり、そんな戯言に騙されたりしてはいけない。
 また、「国立~」とは、広辞苑に「国が設立し管理しているもの」とある通り、その施設・建造物のどこかに、必ず国家予算が投じられて設立及び維持・管理・運営されているものであり、一切国家予算が使われていないものには、「国立~」という名称も使われない。大聖人様が、過去の例証としてよく挙げられる、伝教大師(日本天台宗の祖)が日本に法華経を流布し、勅許を得て建立した比叡山延暦寺の迹門戒壇は、国費を使用して建てられたものではなく、当時の日本天台宗の宗門予算と信徒の布施で建てたものである。故に、これが国立戒壇でないのは当然であり、日本天台宗も、「国立だ」なとどは一切言ってない。
 この「国立」の定義について指摘すると、顕正会は、
「自分達が、いつ国費で戒壇を建立せよなどと言ったか。国立といっても国費で建てる訳ではない」などという、珍妙な言い逃れをしているが、これは自語相違というものである。なぜなら、他ならぬ浅井会長自身が、顕正新聞平成2年1月15日号で、
「私も、広宣流布の時の本門戒壇建立に際しては、国費だけでなく全国民の自発的な御供養があって当然だと思う」 と、国費を使うことをはっきりと言っているのである。
 また、憲法第4条では、〝天皇が国事を行うには、内閣の承認が必要、内閣の責任下で行われる〟となっている。明らかに天皇は国主ではないことは小学生でもわかる。また、選挙制度により度々政権交代をする背景と、時の首相が変わるたびに国家運営も変遷するゆえ、国家の決議などで国立戒壇を建設したとしても、首相変われば即座に解体する可能性も十分にある。これでは、広宣流布の条件である「令法久住」が成り立たない。いかに浅井の考えが〝浅い〟浅識であるかよくわかる。

5)顕正会の本尊は殆どニセ物=「顕正新聞に」明らかな、ニセ本尊の証拠

 顕正会員も、会館の御本尊や幹部の自宅の御本尊は、大御本尊につながっていると思って、純真な祈りをささげているはずです。顕正会では、創価学会と違い、「日蓮正宗から下付された正統の本尊だけが本物である」と教えているのですから、もし会館などにある本尊が、浅井が勝手に印刷したものだとしたら、純真な会員は衝撃を受けることでしょう。
「顕正新聞に書いてあることは全部真実だ!」と信じているでしょうが、その新聞記事において、所蔵する本尊の数や種類がコロコロ変わっているという事実を知っているのでしょうか。
 そもそも、破門された浅井昭衛が、「大量の本尊」を下付されうる道理が無いのです。死人に口なしで、松本師(今は故人)にそんな権限も力も無かったのです。たとえ能化といえども、「大量の本尊」を持たせるということは、宗門においてはありえないことです。
 とにかく、顕正会の最高指導者浅井昭衛が、自ら露呈した”自語相違”を、顕正新聞の実際の記述によりながら、その出鱈目な言説を検証してみましょう。
 以下に、建立に至る経緯から破却までの詳細を時系列に即して述べてみます。
●顕正新聞に明らかな、ニセ本尊の”証拠
 「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。(中略)妙信講に解散処分 が下された時、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるよう願い出た。松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持 されていた 大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人書写の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。 この七幅の常住御本尊とは、
  二十八代日詳上人  五十四代日胤上人  五十五代日布上人
  五十六代日応上人  六十代日開上人   六十四代日昇上人

 等の歴代上人御書写の御本尊であり、 このうちの日布上人書写の御本尊が高知会館に御安置されたのである。
 また御形木御本尊については、宗門の全末寺において昭和四十年までは日寛上人の御本尊が下附されていたが、四十一年からは日達上人の御形木御本尊に替 わった。 松本尊能師は四十年以降この日寛上人の御形木御本尊を妙縁寺に秘蔵しておられたが、私の願い出により、これをすべて託して下さったのである。 いま、顕正会において、地方における入信勤行の際に幹部が奉持する御本尊も、また地方拠点に御安置される御本尊も、みなこの日寛上人の御本尊様である。」

(顕正新聞 昭和60年3月15日号)

「ここに、松本尊能化は、妙縁寺に所蔵するところの、歴代上人の御直筆御本尊七幅、日寛上人の御形木御本尊を多数、日布上人の御形木御本尊を多数、用意して、私に託して下さったのであります。 この松本尊能化の地方会館に安置し奉る大幅の日布上人の御形木御本尊と、自宅拠点に懸け奉る日寛上人の御形木御本尊を、松本尊能化にぜひ用意して下さるよう敢えて願い出て、これを授与して頂いたのであります。
  このときさらに松本尊能化は、「葬儀のときに困るでしょう」とおっしゃって、日寛上人御書写の「大日蓮華山大石寺」の脇書がある導師曼荼羅の御形木御本尊 まで、六幅授与して下さったのであります。   私は、この異常事態の宗門の中で、ひとり顕正会だけが、あの清らかな日寛上人・日布上人の御本尊様を拝めるということ、こんな有難いことはないと思っております。」

(顕正新聞 平成11年4月25日号)


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 ↑さて、十数年を経ると、日布上人の御形木御本尊が突如として現れます。 それだけにとどまらず、新たに「大幅の日布上人の御形木御本尊」と「日寛上人の御形木導師曼荼羅」が増えてしまいました。
 これはいったいどういうことなのでしょう。
「大幅の日布上人の御形木御本尊」は宗門に存在しないのです!
大幅の日布上人の御形木御本尊というものはそもそも、この世に存在したことがないのです。
 ただ、浅井は、すでに所蔵していた日布上人の御本尊(形木ではなく直筆のもの)から版を取り、模造本尊を生産するつもりで、上記のように、存在しない本尊をでっち上げたのでしょう。
 そっくり同じ本尊が複数存在するからには、それは御形木があって、それで印刷したのだと説明すれば、本尊に関する基礎的な知識が無い者に限り騙すことは可能です。
 御形木があると言い張れば、無知な会員を騙せると踏んだというわけでしょう。
 仮に、浅井が御形木を所有していたとしても、それで本尊を印刷することは教義上許されません。
そこを衝かれないために、浅井は、「大幅の御形木本尊が初めから多数ある」かのように言って見せたわけです。
実際には、既存の本尊から版を起こし、印刷して増やしたニセ本尊であることは、状況証拠からして明らかな事実です。導師曼荼羅に「大石寺」などという脇書はありえないのです!
 
もっとひどい嘘は、「日寛上人の御形木導師曼荼羅」です。
そんなものはこの世に存在しません。
 ただ単に「葬式用に導師曼荼羅をもらった」と言えばまだ良かったのに、真実味を出そうとしたのかわざわざ「脇書」に言及して見せ、「大石寺」の脇書があると言うのですが、脇書というのは、下付する相手のことを書くものであって、下付する主体のことを書くことはありません。
したがって、脇書に下付する側である大石寺の名が記されるのはあり得ないことで、通常は末寺の名前が入るのです。日蓮正宗の信徒なら、まずこの時点で、浅井の言説が嘘だということが明確にわかります。

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●松本日仁師は「御本尊返還」を命令していた
 「実は九月二十八日に内容証明が一通まいりました。何事ならんと見れば妙縁寺の松本御能師の名前で差し出されている。「妙信講の本部会館に御安置の御本尊をすぐ返還せよ」とある。まさか、あの松本御能師がそんなバカなことを仰せになるはずはないのです。いまになって見れば、すべての実相がわかってきた。御能師にすべてお聞きしました。
 九月二十八日に御能師は突然本山へよび出されたそうです。そしていきなり、「妙信講の御本尊を取りかえすように」と猊下からいわれた。そこで御能師は 「自分には信義上とてもそんなことは出来ない、むしろ自分の首を切ってくれ」と言上したそうです。そしたら猊下は「すぐ取り上げるのではない。ケジメをつ けるのだ。松本さんも老齢だし、将来わからなくなると困るから貸与してある記録として内容証明を残しておくのだ」といわれた。
 そこで御能師も安心して、すでに宗務院で用意してあった案文を写し署名されたのです。
 その後、十月十一日に御能師はまた本山に登られた。その時猊下は、「もっと強気になって返還請求しなければだめだ。さもないと、妙縁寺の責任役員会を開かねばならぬようになるかも知れない」といわれた。(中略)
 そこで昨年十二月二十二日の御入仏式の時、すでに松本御能師と堅い約束の文書を取り交しておりました。松本御能師からは「十万達成して妙信講授与の御本尊感得の暁まで、本部会館安置の本尊として確かに貸与する」と覚え書きを下された。」

(冨士 昭和49年12月号 浅井昭衛理事長)

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 ↑そもそも、妙信講はすでに日蓮正宗から認められていないのですから、そんな団体に、御本尊を渡したままにするはずはないのです。
返還命令は本気で行われたものであって、「貸与したことを忘れないための記録」などではなかったことは道理からも宗門の慣習からも明らかです。
 第一に、本尊のことは猊下が決めることであり、それ以外の人と「堅い約束」もヘチマもあるものではありません。浅井は様々な言葉を弄して話を分かりにくくしている感さえ抱きますが、解散命令の下った信徒らに信仰上最第一に重要であるところの本尊を渡したままにする「約束」など、いかな高僧といえどもする権限のあろうはずがないのです。
 そもそも、自分の所有物でもない御本尊を、「信徒を除名になっても永久にあなたのものです」などという「約束」が成立しよう道理がありません。
 浅井昭衛はこのように、都合の悪いことを次々と捻じ曲げては得意げにしゃべり、頭の弱い会員を騙し続けているのです。
 なお、この内容証明の一件により、顕正会にある本尊のうち、最低でも一体は本物が混ざっているということは間違いありません。
 


顕正会・浅井昭衛の邪義に鉄槌下す

【大白法】平成17年4月16日(第667号)より
目      次
  
悩乱の沙汰、欺瞞に満ちた「対決申し入れ書」   浅井昭衛の誑惑の言を暴く 
 〝(一)御遺命破壊〟の謗言を破す 
広布進展に応じた大堂の建立は必然    大聖人の戒壇の正義を両上人は御指南
浅井の国立戒壇は大聖人の正義に非ず   御歴代上人に浅井のいう国立戒壇の義無し
浅井の悪言は頭破七分の罪科 
 〝(二)謗法与同〟の暴言を破す
大石寺の見学許可は本宗古来の大慈悲の化儀   山崎講演への悪言は事実誤認 
〝(三)「河辺メモ」における大御本尊誹謗〟の妄言を破す 
浅井の疑難は創価学会の二番煎じ    浅井の御開扉中止発言は笑止千万
浅井の血脈否定は変節漢の両舌・無節操 
 
〝対決申し入れ〟は除名処分者のたわ言 
浅井昭衛の対 決 申 し 入 れ 書
 

大石寺から〝破門〟
された団体です

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