累計
昨日

【創価学会顕正会トンネル → 法華講へ!】 〜罰トンネルから脱出し正法へ〜


 こんにちは、島根県・功徳寺支部の野々村光訓です。宜しくお願いします。

【創価学会から顕正会へ、迷宮の暗闇路線】

 私は本年2月、功徳寺において勧誡を受け、顕正会より日蓮正宗に再入信させていただきました。
 御授戒は昭和63年に創価学会へ入信をした時で、顕正会には平成元年から籍を置き、平成17年まで自宅を拠点として提供するなど、地元の中心者として活動してまいりましたが、とある理由により無期限の謹慎となっておりました。

 ご承知の通り顕正会の会是は日蓮大聖人一期の御遺命を「国立戒壇建立」としていることです。もちろんこれは、国柱会田中智学の邪儀同様に会長浅井昭衛の御書を自分勝手に歪曲した主張ではありますが、入会当時、教学も浅く血気盛んな年頃であった私には、先輩会員から聞かされる、昭和40年代には強大な宗門・学会を相手に御遺命守護を戦い、講として死罪に等しい解散処分をも乗り越えて尚、広宣流布に一人立たれる浅井先生は、この国でただ一人日蓮大聖人より直にご命令を受けておられると真剣に信じておりました。
 当時、島根県には同志は少なく、私はたまに訪れる東京の幹部とともに折伏戦を展開し組織拡大を目指して寝食を忘れて活動しておりました。
 一方、私生活では平成3年に現在も営んでおります自動車修理工場を開業し、妻と子供たち、両親も健在で、一見御本尊様のご守護を享受しているかのようでした。
 しかし、活動をすればするほど幸福を感じる時間はいつも短く、苦しい時間ばかり長く続く事が多くありました。まさしく苦しい時間というのは罰のことであり、幸福と感じたのは魔が見せたまやかしだったのです。この時代、顕正会はまだ本尊の偽造配布も御相承否定もしていませんでしたが、既に宗門から離れ血脈の途絶えた場所でいくら頑張っても本物の功徳など望むべくもなかったのです。

【罰の生活と、不可解かつ一方的な無期限謹慎処分】

 結果として工場の経営は忙しいばかりで儲からず、平成6年に産まれた三男は超未熟児でそれが原因で両眼の視力を失い、平成八年に癌を発症した母親は4年間の闘病の末に、祈りも空しく、平成12年に58歳という若さで他界いたしました。更に平成14年には、活動上、家族に、特に負担をかけていた自宅拠点について、止めてほしいと頼む妻の願いを一蹴して、私は顕正会での活動に懸けると言い切ってしまいました。その為に、家族以外の者が昼夜関係なく出入りしては満足にプライベートを保てない状態に、我慢の限界を超えた妻は離婚を決意して出て行くことになりました。振り返れば、これらの現証はすべて、異流義団体顕正会への勧誘で多くの人に謗法の罪障を積ませてしまったことや、御授戒で受けた御本尊様を顕正会の物に代えたことの罰であり、更に言えば、平成11年の浅井昭衛による血脈相承否定の時節とも付合することから、今更ながら御本尊様と猊下様に背いた時の賞罰の厳しさに平伏するとともに後悔の念でいっぱいです。さて、冒頭に述べた私の無期限謹慎の処分理由ですが、表向きは他組織の勧誘活動に口を挟んだ事が組織の統率を乱したことになり、拠点責任者として不適格だということでした。しかし、どうやら事の本質はそこではなかったようです。
 と言うのも、入会当初、私を指導していた組織の幹部は妙信講二世で男子部隊長の職歴もある幹部でしたが、突然除名となりある日を境に組織から消えました。それ以降私には活動上の接点はありませんでしたが、所属する組織の長とその人とは繋がりがあり、私もそのことを知っていました。そして、その人が除名処分になった理由が、御本尊と御相承について浅井昭衛に反発したことであることも漏れ聞いていました。本部に呼び出され、まるで取り調べの様な形で問われたのは、彼らが何のために会っているのか知っているかということと、お前も仲間なのかという事でした。
 尋問の主は、今は顕正会から居なくなりましたが、当時は泣く子も黙る浅井の娘婿で本部理事という大幹部でした。言う事が言い掛かりに等しくあまりに道理に反していたので耐え切れず反発をすると、それが気に入らなかったのでしょう、その場で無期限謹慎となりました。しかし、どうやら私への処分は最初から決まっていたようでした。実は、私を本部に呼び出すのと同時進行で、私の自宅の御本尊を承諾もなく勝手に引き上げておりました。帰宅し空の仏壇を見た時の衝撃は今も忘れません。顕正会員でいたいなら浅井は絶対であり浅井しか見てはいけないとその者は言いましたが、古参幹部を悉く粛清してまで隠したいこととはいったい何でしょうか?それらの具体的な事については、既に法華講におられる多くの脱会幹部や会員の皆さんが機関紙等で語っておられる通りなので、ここでは割愛させていただきます。それにしても、謹慎中15年の間に顕正会からの通信は一度もありませんでした。日蓮大聖人の仏法を唯一正しく行じている無二の団体と言っている割には、なんとも無慈悲なことであります。 かくて、長く根無し草のような時間を無駄に過ごしてしまいました。

【当サイト(蘭室の友別館「蘇生の扉」)にたどり着き、正法へ帰依!!】

 しかし、御聖誕八百年の慶祝の年に、しかも2月、御誕生会に間に合って再び御本尊様にご縁をさせていただき、長い年月を経てやっと本物の信仰ができる場所、本門戒壇の大御本尊様と血脈付法の御法主上人まします日蓮正宗に再入信できた喜びは筆舌に尽くせません。そして、そのきっかけを作ってくれた父には本当に感謝しています。
 父は、近年は病気で入退院を繰り返し、その為日に日に弱気になり、死後の自分はどうなるのかととても心配していました。自分を弔う菩提寺も無いのですから当然のことだと思います。とにかく、先ずは父を安心させたくて、私は、長年ずっと目を背けてきた自身の信心という問題と向き合う決意をしました。決意をしましたがそれでも功徳寺様の敷居は高く、一人では越えられませんでした。
 祈るような思いで日蓮正宗信徒の方が運営するインターネットのサイト(当サイト)見つけ、そこで知り合った法華講の方(当サイト管理者)の力をお借りして漸く、その方の所属する寺院の御尊師から嶋御尊師に連絡をしていただき、勧誡をさせていただけることになりました。そして、勧誡後すぐに父の御授戒を賜り、次に将来伴侶となる方の御授戒も叶えていただきました。

【父の成仏の相と、友人家族の入信、そして入仏式へ】

 その後しばらくして、我が身の罪障深きゆえに世法に流されてしまった時期もありましたが、去る8月8日の父の臨終が改めて自身の信心を見直すきっかけとなりました。
 御書に仰せの臨終の「成仏の相」の確かなることを実感し、さらに葬儀を終えて間もなく、友人家族の御授戒を5人同時に叶えていただきましたが、その友人には今まで何度も約束を反故にされていたにも拘わらず、弔問に訪れた時のたった一度の折伏の機会で決定し、本人のみならず奥さんと子供たちまで連れてくるとは予想だにしておらず、これこそ正にご守護の賜物であり御本尊様絶対の大確信に立たせていただくものでありました。また、竜の口御難会前日の11日には、嶋御尊師導師による御入仏の儀も終え、晴れて自宅に御本尊様をお迎えすることも叶いました。
 かつて顕正会員であった時、御授戒で受けた御本尊様を取り替えるという御不敬を心ならずもしてしまった我が身が、再び三宝一体の正しき御本尊様を受持できますことは、本当に夢のようであります。

 最後になりますが、今は感激に溢れて過ごしておりますが、今度こそ以前のような失敗はしたくありません。今回のご守護に慢心することなく、大聖人様からの「今一重強盛の御志あるべし」との仰せを胸に刻み、ここからが自身の修行の本番と心するものです。感激の火をさらに増していけるように日々の勤行唱題に励み、御法主上人猊下、御尊師、講中の皆さまと異体同心して、折伏の推進と同志の育成に更なる精進をお誓いさせていただき、本日の登壇とさせていただきます。以上です。

(北中国布教区 九月度広布推進会)


 野々村 光訓さん(右)
(ご長男、お孫さんと)

   

↑ PAGE TOP