累計
昨日


 43)荒くれな家族がいても、焦らず御本尊を拝ませなさい (字幕有効)
   質問:兄達が、不良の弟を治そうとして信心した。ところが、(弟が)御本尊様を裂いた。ところが、その弟は、またその裂いた御本尊様を裏うちして自分で拝んでおり、この行体をどのように指導したらよいでしょうか。

 それは面倒だから、(弟を)捨てて(放って)おきたまえ。捨てて(放って)おけば自然に治る。 人間の心などというものはね、すぐ治せるものなじゃない。

 治せると思うのは大間違いです。 たとえば、あなた方のなかに子供をもっている人がいると思うけれども、 子供などというものは親の言うことを聞くものではない。 聞くか?自分たちが聞かないできたんだから、子供が聞くわけがない。 (弟を)捨てて(放って)おけ、捨てて(放って)おけ。 そのうちに治る。
 な、そうだろう?あなた方、昔、お父さんやお母さんの言うことをね、まじめに聞いて、親孝行をしてきましたかな? なんだみんな「ふぅ~」って言ってる。 親孝行なんかしてきた奴なんか、日本にはいませんよ。
 それは、子供がいうことを聞かない、まして弟がいうことを聞かないのは当たり前じゃないか。 それを治そうなんていう根性が悪い。
 捨てて(放って)おけば治る、自然に、治る。必ず治る。 焦らんでよろしい。御本尊様を拝んでいれば治る。 御本尊様を拝ませることだけはしなされや。それで治る。以上終わり。


 44)「謗法厳戒」と「謗法払い」について (字幕有効)

   「不渡余行」と言いましてね、余行に渡さずというその、教えがありましてね、 大聖人様がこれは絶対に言い張っている事です。 他の行をやっちゃいかん。これだけだと。 そこで、よく、「神棚を外せ」と我々の宗教は言うんですがね、 神棚は関係ない、外さなくていいんです。 「神札だけ取れ」と私は言うんです。 他の神様はダメだと言う、(他の)仏様はダメだと言う「不渡余行」、余行に渡さずという原理から言ってですね、 それをやらして、清浄な境地において弘安2年の御本尊をただ拝むと、 そうすりゃ(絶対的幸福に)なりますよ絶対に、百発百中と言ってさしつかえないほど、願いが叶っていくんです。

 質問:創価学会と申しますと、非常にですね、割に排他的な宗教であるという風評があるんですが、そういう点に関しては。

 それは排他的ですな、それは。排他的と言われても仕方が無いですな。 というのは、(日蓮正宗以外の)一切の宗教をですね、認めないんです。 なぜ認めないかというと、彼等(他宗)が、民衆を幸福にする力が無い。 人を幸せにする力が無い。商売なんですよ。 商売でない宗教があるというならね、会ってみたいなものですな実際に。
 ま、例えて言えば立正佼成会とか、東京で騒がれてますけど、 あれにしても霊友会にしても、全部がそうです。 人を救うという宗教でなくて、ま、新興宗教と呼ばれている宗教はみな商売です。古い宗教ですね、それは要するに葬式と墓番ですね。 民衆をして生活を楽にさせるとか、 あるいはまた、本当に安心立命した境涯で生きていくとかというですね、事をさせ得ないですからな、 そういう宗教は絶対に妥協しない。
 身延など、絶対ウソの事をやっているわけですからね、 キツネ拝ませてみたり。人間がキツネ拝むなんてとんでもない話ですからな。鬼子母神拝ませたり。 そういうことは何ら、民衆を幸福にしないんですよ。 ですから私は「身延ぶっ潰す!」とこう言うんですから、 身延のあれは嫌がるんですよ、「排他的だ」と。
 そう言われても仕方が無いです、それは。 インチキな宗教には妥協する事はできないです、それは。 「排他的だ」と言われるのはもっともですよ。

【創価学会の謗法容認路線について】
●平成5年12月16日、東京都内のホテルで、立正佼成会の幹部と、共存共栄をはかるための話し合いをした(朝日新聞・読売新聞・毎日新聞に掲載)。
●平成9年2月11日、(当時)秋谷会長は「本尊安置に謗法払いの必要は無い」と発言(聖教新聞:H9.2.11)
●天台宗・真言宗・浄土真宗・天理教などの諸教団を訪問し、「今まで『邪宗教』呼ばわりし、すまなかった」とお詫び行脚(あんぎゃ)を行った。
●多くの邪宗教団とともに「平和フォーラム」なるものを開いて他宗との協調路線を進めている。


 45)聖密房御書-1(真言破折) (字幕-御書のみ)
   大日経をば善無畏・不空・金剛智等の義に云はく「大日経の理と法華経の理とは同じ事なり。但印と真言とが法華経は劣なり」と立てたり。良諝和尚・広修・維蠲なんど申す人は大日経は華厳経・法華経・涅槃経等には及ばず、但方等部の経なるべし。
 日本の弘法大師云はく「法華経は猶華厳経等に劣れり。まして大日経には及ぶべからず」等 云云。

 又云はく「法華経は釈迦の説、大日経は大日如来の説、教主既にことなり。又釈迦如来は大日如来の御使として顕教をとき給ふ。これは密教の初門なるべし」。
 或は云はく「法華経の肝心たる寿量品の仏は顕教の中にしては仏なれども、密教に対すれば具縛の凡夫なり」と 云云。
 日蓮勘へて云はく、大日経は新訳の経、唐の玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る。法華経は旧訳の経、後秦の御宇に羅什三蔵もて来る。
 其の中間三百余年なり。法華経亘りて後、百余年を経て天台智者大師、教門には五時四教を立てて、上五百余年の学者の教相をやぶり、観門には一念三千の法門をさとりて始めて法華経の理を得たり。
 天台大師已前の三論宗、已後の法相宗には八界を立てて十界を論ぜず、一念三千の法門をば立つべきやうなし。
 華厳宗は天台已前には南北の諸師、華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども、華厳宗の名は候はず。
 唐の代に高宗の后則天皇后と申す人の御時、法藏法師・澄観なんど申す人華厳宗の名を立てたり。
 此の宗は教相に五教を立て、観門には十玄六相なんど申す法門なり。
 をびただしきやうにみへたりしかども、澄観は天台をはするやうにて、なを天台の一念三千の法門をかりとりて、我が経の心如工画師の文の心とす。
 これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか。又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか。
 澄観は持戒の人、大小の戒を一塵をもやぶらざれども一念三千の法門をばぬすみとれり。よくよく口伝あるべし。真言宗の名は天竺にありやいなや、大なる不審なるべし。
 但真言経にてありけるを、善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか。よくよくしるべし。
 就中善無畏等、法華経と大日経との勝劣をはんずるに、理同事勝の釈をばつくりて、一念三千の理は法華経・大日経これ同じなんどいへども、印と真言とが法華経には無ければ事法は大日経に劣れり。
 事相かけぬれば事理倶密もなしと存ぜり、
 今日本国及び諸宗の学者等、並びにことに用ふべからざる天台宗、供にこの義をゆるせり。
 例せば諸宗の人々をばそねめども、一同に弥陀の名をとなへて自宗の本尊をすてたるがごとし。天台宗の人々は一同に真言宗に落ちたる者なり。
 日蓮理のゆくところを不審して云はく、善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは、天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を、今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる條ゆるさるべしや。
 例せば先に人丸が「ほのぼのと・あかし(明石)のうらの・あさぎりに・しまがくれゆく・ふねをしぞをもう」とよめるを、紀のしくばう(淑望)・源のしたがう(順)なんどが判じて云はく「此の歌はうたの父うたの母」等 云云。今の人我れうたよめりと申して、ほのぼのと乃至船をしぞをもうと一字をもたがへずよみて、我が才は人丸にをとらずと申すをば人これを用ふべしや。やまがつ海人なんどは用ふる事もありなん。天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父仏の母なるべし。  百余年已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて、大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申すは一念三千なりとかけるをば智慧かしこき人は用ふべしや。


 46)聖密房御書-2(真言破折) (字幕-御書のみ)
   事勝と申すは印・真言なしなんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か、漢土の法華経・大日経の勝劣か。
 不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり。仁王経にも羅什の訳には印・真言なし。不空の訳の仁王経には印・真言これあり。
 此等の天竺の経々には無量の事あれども、月氏・漢土国をへだててとをく、ことごとくもちて来がたければ、経を略するなるべし。法華経には印・真言なけれども二乗作仏・劫国名号・久遠実成と申すきぼの事あり。
 大日経等には印・真言はあれども二乗作仏・久遠実成これなし。二乗作仏と印・真言とを並ぶるに天地の勝劣なり。四十余年の経々には二乗は敗種の人と一字二字ならず無量無辺の経々に嫌はれ、法華経にはこれを破して二乗作仏を宣べたり。いづれの経々にか印・真言を嫌ふことばあるや。その言なければ又大日経にも其の名を嫌はず、但印・真言をとけり。
 印と申すは手の用なり。手仏にならずば手の印、仏になるべしや。真言と申すは口の用なり。口仏にならずば口の真言仏になるべしや。 二乗の三業は法華経に値ひたてまつらずば、無量劫、千二百余尊の印・真言を行ずとも仏になるべからず。勝れたる二乗作仏の事法をばとかずと申して、劣れる印・真言をとける事法をば勝れたりと申すは、理によれば盗人なり、事によれば劣謂勝見の外道なり。
 此の失によりて閻魔の責めをばかほりし人なり。後にくいかへして、天台大師を仰ひで法華にうつりて悪道をば脱れしなり。久遠実成なんどは大日経にはをもひもよらず。久遠実成は一切の仏の本地、譬へば大海は久遠実成、魚鳥は千二百余尊なり。久遠実成なくば千二百余尊はうきくさの根なきがごとし、夜の露の日輪の出でざる程なるべし。天台宗の人々この事を弁へずして、真言師にたぼらかされたり。真言師は又自宗の誤をしらず、いたづらに悪道の邪念をつみをく。
 空海和尚は此の理を弁へざる上華厳宗のすでにやぶられし邪義を借りとりて、法華経は猶華厳経にをとれりと僻見せり。
 亀毛の長短、兎角の有無、亀の甲には毛なし、なんぞ長短をあらそい、兎の頭には角なし、なんの有無を論ぜん。理同と申す人いまだ閻魔のせめを脱れず。
 大日経に劣る、華厳経に猶劣る、と申す人謗法を脱るべしや。人はかはれども其の謗法の義同じかるべし。弘法の第一の御弟子かきのもときの僧正紺青鬼となりし、これをもてしるべし。空海悔ひ改むることなくば悪道疑ふべしともをぼへず。其の流をうけたる人々又いかん。
 問ふて云はく、わが法師一人此の悪言をはく、如何。答えて云はく、日蓮は此の人々を難ずるにはあらず、但不審する計りなり。いかりおぼせば、さでをはしませ。外道の法門は一千年・八百年五天にはびこりて、輪王より万民かうべをかたぶけたりしかども、九十五種共に仏にやぶられたりき。
 摂論師が邪義、百余年なりしもやぶれき。南北の三百余年の邪見もやぶれき。日本二百六十余年の六宗の義もやぶれき。其の上此の事は伝教大師の或書の中にやぶられて候を申すなり。
 日本国は大乗に五宗あり、法相・三論・華厳・真言・天台なり。小乗に三宗あり、倶舎・成実・律宗なり。真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども、くわしく論ずれば皆小乗なり。宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり。其の中に定慧はさてをきぬ。戒をもて大小のはうじ(榜示)をうちわかつものなり。
 東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳臭糞の戒を持つ。戒を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし。
 比叡山には天台宗・真言宗の二宗、伝教大師習ひつたへ給ひたりしかども、天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇立つべきよし申させ給ひしゆへに、天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして、天台法華宗の止観。真言とあそばして公家へまいらせ給ひき。
 伝教より慈覚たまはらせ給ひし誓戒の文には、天台法華宗の止観・真言と正しくのせられて、真言宗の名をけづられたり。天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候。真言宗の真言は当分の宗、論師・人師始めて宗の名をたてたり。
 而るを、事を大日如来・弥勒菩薩等によせたるなり。仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし。小乗には二宗・十八宗・二十宗侯へども、但所詮の理は無常の一理なり。法相宗は唯心有境なり。大乗宗無量の宗ありとも、所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり。三論宗は唯心無境なり。無量の宗ありとも、所詮唯心無境ならば但一宗なり。此は大乗の空有の一分か。華厳経・真言宗あがらば但中、くだらば大乗の空有なるべし。
 経文の説相は猶華厳・般若にも及ばず。但しよき人とをぼしき人々の多く信じたるあいだ、下女を王のあいするににたり。
 大日経等は下女のごとし。理は但中にすぎず・論師・人師は王のごとし。人のあいするによていばうがあるなるべし。
 上の問答等は当時は世すえになりて、人の智浅く慢心高きゆへに用ふる事はなくとも、聖人・賢人なんども出でたらん時は子細もやあらんずらん。
 不便にをもひまいらすれば目安に註せり。御ひまにはならはせ給ふべし。これは大事の法門なり。こくうざう菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。
                                         日蓮 花押

  聖密房 之を遣はす

 47)48)49)「三大秘法稟承時」(顕正会破折) (字幕なし)
   夫れ法華経の第七神力品に云く「要を以て之を言ば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此経に於て宣示顕説す」等云云。釈に云く「経中の要説の要四事に在り」等云云。
 問ふ、所説の要言の法とは、何物ぞや。答て云く、夫れ釈尊初成道より四味三教、乃至法華経の広開三顕一の席を立て、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで、秘せさせ給ひし実相証得の当初修行し給ひし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。
   教主釈尊、此の秘法をば三世に隠れ無き普賢・文殊等にも譲り給はず。況や其の以下をや。
されば此の秘法を説かせ給ひし儀式は、四味三教並に法華経の迹門十四品に異なりき。 所居の土は寂光本有の国土なり。能居の教主は本有無作の三身なり。所化以て同体なり。 かかる砌なれば久遠称揚の本眷属、上行等の四菩薩を、寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給ふ。
   道暹律師云く「法是れ久成の法なるに由る故に、久成の人に付す」等云云。
 問て云く、其の所属の法門、仏の滅後に於ては、何れの時に弘通し給ふべきか。 答て云く、経の第七薬王品に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。 謹て経文を拝見し奉るに、仏の滅後正像二千年過て、第五の五百歳闘諍堅固白法隠没の時云云。
 問て云く、夫れ諸仏の慈悲は天月の如し。機縁の水澄めば利生の影を普く万機の水に移し給べき処に、正像末の三時の中に末法に限ると説き給はば、教主釈尊の慈悲に於て偏頗あるに似たり如何。 答ふ、諸仏の和光利物の月影は九法界の闇を照すと雖も、謗法一闡提の濁水には影を移さず。 正法一千年の機の前には唯小乗・権大乗相叶へり。
 像法一千年には法華経の迹門機感相応せり。 末法の始の五百年には法華経の本門前後十三品を置て、只寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。
 今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳、機、尚堪へず。況や始めの五百年をや。何に況や、正法の機は迹門尚日浅し、増して本門をや。 末法に入て、爾前・迹門は全く出離生死の法にあらず。但専ら本門寿量の一品に限て出離生死の要法なり。是を以て思ふに、諸仏の化導に於て全く偏頗無し等云云。
 問ふ、仏の滅後正像末の三時に於て、本化・迹化の各各の付属分明なり。但寿量の一品に限て末法濁悪の衆生の為なりといへる経文未だ分明ならず。慥に経の現文を聞かんと欲す如何。 答ふ、汝強ちに之を問ふ。聞て後堅く信を取るべきなり。所謂寿量品に云く「是の好き良薬を、今留めて此に在く、汝取て服すべし、差じと憂ふる勿れ」等云云。
 問て云く、寿量品専ら末法悪世に限る経文顕然なる上は私に難勢を加ふべからず。然りと雖も三大秘法其の体如何。 答て云く、予が己心の大事之に如かず。汝が志無二なれば少し之を云はん。 寿量品に建立する所の本尊は、五百塵点の当初より以来、此土有縁深厚、本有無作三身の教主釈尊是れなり。寿量品に云く「如来秘密神通之力」等云云。 疏の九に云く「一身即三身なるを名けて秘と為し、三身即一身なるを名けて密と為す。又昔より説かざる所を名けて秘と為し、唯仏のみ自ら知るを名けて密と為す。仏三世に於て等しく三身有り、諸教の中に於て之を秘して伝へず」等云云。
 題目とは、二の意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行ばかりにしてさて止ぬ。 像法には南岳・天台等、亦南無妙法蓮華経と唱へ給て、自行の為にして広く他の為に説かず。是れ理行の題目なり。 末法に入て、今日蓮が唱る所の題目は、前代に異り自行化他に亘て、南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。
 戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持て、有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。 時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏給ふべき戒壇なり。
 此の戒法立て後、延暦寺の戒壇は迹門の理戒なれば益あるまじき処に、叡山に座主始まつて第三第四の慈覚・智証、存の外に本師伝教、義真に背て、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなづり、戯論とわらいし故に、 存の外に延暦寺の戒、清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒に土泥となりぬる事、云ても余りあり、歎きても何かはせん。 彼の摩黎山の瓦礫の土となり、栴檀林の荊棘となるにも過ぎたるなるべし。 夫れ一代聖教の邪正偏円を弁へたらん学者の人をして、今の延暦寺の戒壇を踏ましむべきや。此の法門は義理を案じて義をつまびらかにせよ。
 此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり。 今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき、色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。
 問ふ、一念三千の正しき証文如何。答ふ、次に出し申すべし。此に於て二種有り。 方便品に云く「諸法実相 所謂諸法 如是相 乃至欲令衆生 開仏知見」等云云。底下の凡夫、理性所具の一念三千か。 寿量品に云く「然我実成仏已来 無量無辺」等云云。大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり。今日蓮が時に感じて、此の法門広宣流布するなり。
 予年来己心に秘すと雖も、此の法門を書き付て留め置ずんば、門家の遺弟等、定めて無慈悲の讒言を加ふべし。 其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存ずる間、貴辺に対し書き遺し候。一見の後秘して他見有るべからず。口外も詮無し。
法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給て候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。
 秘すべし秘すべし。

 
(50)質問会集

「質問会に当たって」
 

「御本仏が迫害せれる理由」 
 

「追善供養について」 
 

「今世で親子の縁が結べるか」
 

「ニセ御本尊について」
 

「中国やインドに仏法があるか」
 

「一家揃って信心がしたい」
 

「五字七字の題目について」
 

「十如是を3回読む理由」
 

「死相について」
 

「怪我で死んでも寿命か」
 

「広宣流布時に諸天膳神は帰ってくるか」

「夫が家に帰らない」
 

「戸田先生に自叙伝を書いて欲しいい」

「仏心とは」
 

「手紙に南無妙法蓮華経と書いてよいか」

「方便品と寿量品の意味は」
 

「初座の御観念文の意義」
   

「霊山浄土について」
 

「貧乏が゙直りにくい理由」
 

「信心の強弱と前世との関係」
 

「御本尊の左右に認めてあるのは」
 

「罰と宿業と宿命転換について」
 

「メチールを飲んで潰れた目が治るか」

「現代の国家諫暁とは」
 

「万年救護の御本尊と大御本尊の違い」

「御本尊のお文字が末広がりの理由」
 














   

↑ PAGE TOP