---SKD創価学会・顕正会脱会ネットワーク---   

 

創価地獄からの生還! 〜学会にいるだけで生き地獄〜


 「創価地獄からの生還」 川瀬圭一
 みなさん、こんにちは。川瀬圭一と申します。
 私がこの仏法(日蓮正宗・創価学会)に巡りあったのは、小学校4年生の時でした。父の再婚相手、私にとって2人めの母が熱心な創価学会員 だったのです。以来、 中学・高校の時は一所懸命に学会活動をして、昭和62年3月、苫小牧工業高校を卒業と同時に御本尊様を御下付いただいき、君津市の新日鉄化学へ就職しました。しかしこの時期に両親は離婚し、私は父へついて行きました。父は退転状況となり、私も同時に信心が堕落していきました。住まいが 社員寮ということもあり、御本尊様を御安置する気持ちにすらなれませんでした。勤行は全くせずに、勝手気ままな謗法の生活となっていきました。
 気が向いたときに創価学会の会合に参加するという状態でしたから、平成3年に学会が破門されたことも知る由がありません。しかし罰は出てき ました。学会破門と同時期に、私は酒気帯び運転で人身事故を起こして多額の借金を負い、さらに退社を余儀なくされました。また、当時一番仲のよかった学会員で会社の同僚が、事業費を使い込んで失踪してしまいました。周りの学会男子部は「これは学会が正しい故の魔である。宗門は謗法と化してしまった。今こそ学会男子部として奮い立とう」などと馬鹿なことを言っていました。しかし、幸か不幸か罰の現証がどんどん出てくる中で、私は学会活動どころではくなり、経済的にも持ち切れなくなって実家の北海道に帰ってしまいました。そこにはすでに、私にとって3人目の母と二人の連れ子が生活していました。父は完全に退転 し、御本尊様もお返ししておりました。私も信心のことどうでもよくなり、適当にアルバイトをして、借金の返済をしながら気ままな生活をしました。しかし、 大きな夢を抱いていた内地の生活の未練が捨て切れずに、平成7年夏にわずかな資金を頼りに君津へ戻って来ました。
 初めのころは友人の世話になりながら生活をつないでおりましたが、長く続くはずもありません。いつの間にかパチンコ店を渡り歩く生活となりました。そして またもや酒気帯び運転の交通事故を起こして、借金は振り出しに戻りました。たった一つの私の財産である、ボロボロの車までもとうとう動かなくなり、次のパチンコ店が決まるまではこの車を住まいとしました。しかし、すぐに警察の職務質問に会ってしまうので、動かぬ車を手で押してあちこちと移動しました。もう 私にはゴミ袋二つ分の衣類だけで、生活の道具すらなくなり〝ただ生きていくだけ〟となりました。今年の4月に某パチンコ店に転がりこみました。ここでの生活は最悪でした。6月5日に給料をなんとか貰って辞めることにしました。
 そうしていると6月2日の夜遅くに、スーツ姿のW君が訪ねて来たのです。はじめはWと聞いてもピンときませんでしたが、すぐに思いだし、懐かしさで一 杯になりました。いろいろ話しているうちに、学会の間違いに気がつき、腹が立ってきました。そしてすぐに脱会しようと思いました。そのまま夜通しで東京に 行き、朝にW君の所属するお寺に行って勤行をしました。
 御住職様からは「君津でそんな生活をしていてもしょうがないだろう。こっちで暮らしなさい。今日君達は休暇を取ったのだから、今日一日で住まいと職場を見つけなさい。そして夕参りのときに勧誡をしましょう。もう今日から川瀬君はうちの青年部だよ」と温かく御指導下さいました。
 早速二人で住居捜しをしました。が、どこの不動産屋へ行っても、私の装いと資金のなさが信用されず、挙げ句の果てには「あなたは日本人ですか?」と言われる始末です。これがショックでした。最終的に、ある新聞店に住み込みで働くことになりました。その日の夕方、勧誡を受けすっきりとしました。しかし、その後は大変ハードな生活となりました。朝夕の配達と仕分け、集金、昼夜の拡張営業、留守番のすべてがのしかかり、ほとんど睡眠時間がありません。さらに月に一日の休暇しかもらえません。このままではいけない、信心の活動ができる場所を見つけるぞ、との思いで必死に勤行と唱題を続けてまいりました。御祈念も「君津にいる 田中さんという友人を救っていただきたい」との思いだけになりました。これからは思う存分、報恩感謝の信心活動をできる職場をみつけて、どんどん折伏していきたいです。
 創価学会という組織の中で、知らずに猛吹雪にあえいでいましたが、29歳にしてやっと雪解けの望みが見えてまいりました。私の人生はこれからです。今日の登山を機にがんばります。よろしくお願いします。