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1)大聖人の仏法と池田教の違い



「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり」(『三大秘法禀承事』)
 三大秘法は法華経の根源の法体であることを明かされています。三大秘法には、本門の本尊に「人」と「法」、本門の戒壇に「事」と「義」、本門の題目に「信」と「行」という六義(六大秘法)の立て分けがあります。

【一大秘法】
 一大秘法とは日蓮大聖人が弘安2年(1279年)10月12日に建立された本門戒壇の大御本尊のことである。(創価学会発行『新版仏教哲学大辞典』)

  


【三大秘法が存在しない】
 平成26年11月、原田会長は「戒壇の大御本尊は受持の対象にしない」と発表しました。戒壇の大御本尊は一大秘法ですから学会の信仰には三大秘法は成り立たず、大聖人の仏法に違背します。
 創価学会は破門後、それまでの学会がとってきた信仰とは根本部分においてに似ても似つかないものと変質している。 学会員の中にも、今の学会は「池田教のようだ」と口にするする者も少なくない状態になっている。では、一体何が大聖人の仏法と違うのかを検証しておきましょう。



2)信仰の大事:相伝の有無



【相伝の大事】
日蓮一期弘法付嘱書
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり」
一代聖教大意
「仏法は相伝にあらざれば知り難し」


●学会発行 折伏教典 昭和43年 改訂36版
「文底下種法門は、ひとり深秘の血脈相承を受け継がれた日興上人、日目上人の正統正流である日蓮正宗富士大石寺が、これを伝えているのであって、不相伝家・偽似日蓮宗の他門流などが、絶対にうかがいしることのできない法門なのである。」

不相伝家はみな本尊に迷うということである。」
相伝のない創価学会で正しい信仰はできません。


【相伝の否定】
●池田名誉会長指導
「成仏は自分自身の『信心』で決まるのであって、『聖職者』の介在によって決まるのではない。『直接』こそ仏教本来の在り方である。『日蓮大聖人直結』の創価学会の信仰こそが正義なのである。」(聖教新聞 平成6年6月5日 )



3)信仰の根本:本門戒壇の大御本尊の有無



【信仰の根本・戒壇の大御本尊】
●学会発行 折伏教典 昭和43年 改訂36版
「弘安二年の本門戒壇の大御本尊に帰依したてまつる以外に、成仏得道の道は絶対にないのである」
「御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である


【戒壇の大御本尊と決別】
●原田会長発言 平成26年11月8日付 聖教新聞
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」
 さて、学会の全ての本尊には戒壇の大御本尊を写す意味で「奉書写之」と書かれている。学会が大御本尊と決別した理由を「謗法の地にあるから」としているが池田名誉会長は破門後も、「学会員の祈りは〝弘安2年の大御本尊に通じる”」と指導してきたのである。これでは学会が嫌う大御本尊へ通じることになるがどう説明するのか。



4)宗教で一番大切な本尊観の相違



【人法一箇の御本尊】
御義口伝
「南無とは梵語なり、此には帰命と云ふ。帰命に人法之有り。人とは釈尊に帰命し奉るなり、法とは法華経に帰命し奉るなり。」


学会発行 折伏教典 昭和43年 改訂36版
「弘安二年の本門戒壇の大御本尊こそ、人法一箇の御本尊である。ゆえに諸御書に「一念三千即自受用身」「自受用身即一念三千」等と仰せられている。すなわち南無妙法蓮華経が即日蓮大聖人であらせられるのである。」

【人法一箇の御本尊】
 御本尊とは、人即法の本尊を言う。御書中においては「南無妙法蓮華経」、あるいは「妙法蓮華経」、あるいは「題目の五字七字」等をもって表現されている が、根本の法体より言えば、久遠元初自受用報身の証悟された法の全体であり、すなわち事の一念三千、無作本有の南無妙法蓮華経の本尊である。事の一念三千とは法本尊の内容で、宇宙法界に遍満する本仏の一念に即する十界互具と十如と三世間を束ねた融妙の理法と活動を言うのである。この三千の法は、普遍性と個別性と自在性を具えて融妙しているが、一切衆生はその自覚もなく、したがってその活用に至らない。宗祖大聖人がただお一人、妙法のお振る舞 いの内証をもって、この法を顕示されたのである。いわゆる法の全体性と人の個別性が全く一如して、法に即する人、人に即する法のなかにおいて、人即法 もって法本尊とする。(三大秘法義 日顕上人)


【人法一箇を用いず】
人法一箇の語を使わなくなった創価学会。その理由は、
●聖教新聞 平成5年5月5日付
「久遠元初の法を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける」 大白蓮華 平成10年9月号 
「御本尊を根本と拝して題目を唱えていくことです。その信行に仏界のリズムが具わり、大宇宙の仏界と共鳴して、偉大な功徳を得ていけるのです。」
「宇宙法」への信仰に変質した創価学会
 「久遠の法」「宇宙の根源法」などと学会は、己義をかまえるが、その法とは一体何なのか詳細を説明していない。法といっても、大聖人の教えは、上記の人本尊の説明であり、学会の教えるところの法とはまったく異質である。




5)広宣流布する目的の相違



【大御本尊を弘めること】
三大秘法抄
「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」

百六箇抄
「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」
日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり

●学会発行 折伏教典 昭和43年 改訂36版
「されば三大秘法の広宣流布は、御本尊流布によって民衆が帰依し、本門戒壇を建立して完成されるのである。そのために、まず題目が一国に流布して、まさに日蓮大聖人出世の本懐たる弘安二年の大御本尊の流布を待っていたのである。」


【池田大作氏を宣揚すること】
 戒壇の大御本尊を捨てた創価学会は、いくら広宣流布を掲げても、それは池田大作氏を宣揚し、組織拡大を図るものでしかない



6)仏法僧の三宝の有無



【三宝一体】僧宝を敬わずして仏道なし
代々の聖人悉(ことごと)く日蓮なりと申す意なり」(御本尊七箇相承)
「僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によて住す。」(四恩抄)
「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしでか仏道を成ぜん。」(四恩抄)
「末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。(中略)何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。」(新池御書)
僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。」(新池御書)
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし(新池御書)
「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。」(真言見聞)
「在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり(松野殿御返事)
日寛上人御指南
「末法下種の僧宝を仰ぐべき也。爾來日目日道代々咸(ことごと)く是僧宝也」(『三宝抄』)

●かつての学会指導
「末法の三宝とは、仏宝日蓮大聖人・法宝本門戒壇の大御本尊・僧宝日興上人なのです(中略)そして正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を 随一として歴代の御法主上人、広くは御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです(中略) この末法の三宝を正しく信受していくことが、真の信仰であり、それ以外の三宝に執着することは謗法となるのです」(大白蓮華 345号)



【三宝の全てを否定】
「途中の聖職者は必要なし」として、「大聖人直結」の信仰に教義転換。上記の大聖人の御教示からも、まったくの間違い、大謗法となる。かつ、日蓮大聖人を蔑み池田を本仏とし、更に大御本尊を否定しているので、創価学会にはもはや三宝は存在しない。



7)師弟観の相違



【師弟相対に違背して成仏なし】
 大聖人の仏法は、師弟相対を抜きにしてあり得ません。つまり、今日においては日蓮大聖人の御内証を伝持あそばされる二祖日興上人已来御歴代上人の血脈法水に違背しない師弟相対が欠かせないのです。そのことを、日興上人は、
■佐渡国法華講衆御返事
この法門は師弟子をただして仏になり候。師弟子だに違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。」

■富士一跡門徒存知の事
「已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、此の義に依って去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍って御廟に相通ぜざるなり」

 と仰せである。したがって、日蓮日興血脈の次第以来、御歴代上人への師弟相対破壊の信心は、たとえ大聖人の仏法を標榜しようが、妙法蓮華経の当体とならず、御本仏の命脈は流れないのである。



【池田氏との師弟不二】
そもそも、大聖人は在家信徒を仏法の師とせよとは御教示されていない。また、学会が言う「大聖人が現代に再誕されたのが池田先生」というような邪義は当然、御書のどこにもなく、「師弟不二」という言葉も御書には無い。全ては学会が勝手に作り上げた己義であり、堕地獄の因でしかない。

  









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